明けましておめでとうございます。
 平成29年になりました。今年はゆっくりじっくり一つ一つをしっかりと思っています。
 折り紙も動画で撮影して、ホームページにアップしていきたいと思っています。
2歳児が楽しめる創作折り紙
 未満児の記憶の保持力は3秒くらいとか。見た目で決定的な変化がないと興味を示しません。未満児が興味を示さないとお母さんたちも折り紙をしません。
 決定的な変化のある折り紙をたくさん創作していって、未満児と若いお母さんに日本の折り紙文化を普及させたいと思っています。
起き上がり折り紙
http://www.na.rim.or.jp/~tomoyan/origami2/annteitouritu.html
バタフライ
http://www.na.rim.or.jp/~tomoyan/origami2/batahurai.html
などを作っています。

創作折り紙2

2016年12月17日 日常
 最近は満3歳になると保育園や幼稚園に行くようです。5月生まれの子どもは3年と11ケ月保育園や幼稚園に行くことになります。
 家庭にはいわゆる未満児しかいないことになります。若いお母さんたちに折り紙を教えても2歳半はぐじゃっときれいな作品をやってしまい、終わりになります。
 2歳半の子どもが遊べる『動く・簡単・面白い』折り紙でしかも3秒間に劇的な変化をするものが必要です。そこで倒立折り紙やロケットなどを作りました。
 2歳半の子どもが喜ぶとお母さんたちは折り紙に興味を持っていくれるようです。
http://www.na.rim.or.jp/~tomoyan/

創作折り紙のこと

2016年12月16日 日常
創作折り紙のこと
 創作折り紙でいろいろ作っています。平成28年後半は2歳半くらいの子どもが遊べるものをたくさん作りました。
 倒立折り紙・ロケット・うさちゃんなどです。
 スマホサイトを作り、スマホからもアクセスできるようにしました。
http://www.na.rim.or.jp/~tomoyan/bousai/bousai.html
びっくり金魚ちゃん

  びっくり金魚ちゃんを作ってみました。新潟青山イオンラウンジで子どもに遊ばせてみたら、とてもヒットしました。みなさんもぜひやってみてください。
http://www.na.rim.or.jp/~tomoyan/origami/2bikkurikinngo.html






平島公園の草木たち1 草編
 平島公園の草木たちでFBで書き込んでいたのですが、草編がまとまったので、ホームページ上でアップデートしました。
 http://tomoyanjun.web.fc2.com/hejimakouennokusaki1.html
 平島公園をきれいにするために出会った草たちの話です。人間と同じようにいや人間以上に草たちはいろいろな個性があり、戦略を持っています。人間だけが偉いと考える時代は終わりに来たのではないかと感じています。
 クローバー・チドメグサ・マツバギク・シバ・オオバコ・ユリオプスデージー・スズメノカタビラ・ビオラ・ツワブキ・ハナニラといろいろな草たちと出会いました。
平成26年に向けて
 明けましておめでとうございます。
 昨年は平島公園の緑化活動とカプラ活動・折り紙・研修会・学生の授業などの活動を行った。
 平成26年度はじっくりゆっくりやっていきたいと思う。というのはそんなに焦る必要性がないと感じてきたからです。焦る→危機感を募らす→頑張るみたいなパターンをそろっと卒業したいと思っています。
 一番やろうと思っているのは新作の折紙の開発です。73式飛行機・これはびっくり倒立折紙などを作りました。動く・色が変わる・面白い・簡単にできるものを作っていきたいと思っています。
http://www.na.rim.or.jp/~tomoyan/origami/13sikikamihikouki.html
http://www.na.rim.or.jp/~tomoyan/origami/bikkuritouritu.html
学問体系と現場
 私は現場主義である。いつも問題は現場にあり、解決方法も現場にあると考えている。評論家的な態度が嫌いである。科学の知といわれる客観性・普遍性・論理性も大切だが、臨床の知といわれる主観性・個別性・宇宙性もそれ以上に大切だと考えている。
 しかしながら同時に放送大学などの体系的な学習をしていると、『なるほど。こういうことだったのか』と学ぶことも多い。体系的な科学の知も必要なこともある。

 現場と学習の体系化について考えてみたい。
 たとえ話で考えてみるのが良いと思う。現場はいつも主観的で目の前にある。ちょうど山登りをしていると、山の中にいるので山全体の姿が見えない。平地にいて山を眺めているときとは違うのである。全体が見えないから迷ってしまうこともあるであろう。山登りをしながらも、自分はいったいどこら辺にいるかをきちんと理解しておくことは必要である。しかしながら、実際に山登りをしていない人が、平地にいてあれやこれやと指示をしても上手くはいかないであろう。平地にいる人も山登りをしたことがあり、山中の様子がわかっていなければ、適切な指示が出来ないであろう。
 現場と学習体系のことを考えると山登りすることと平地から山をきちんと見ることとの関係にあるように思う。
 平島公園の緑化活動で考えてみよう。草や木は水分と栄養と光が必要であることは学問体系的に明らかである。また、植物によっていろいろな特性がある。どのような植物が平島公園のグランドカバーに必要であるかは、学問体系的に学ぶことはできる。しかし、現実には現場としての平島公園があり、昔、水田であったとか、ケヤキが40年の間にすっかり背が高くなっているとか、子どもがたくさん遊びに来るので、踏圧(とうあつ=人の足で踏まれることで木の周りが硬くなる)のために真ん中辺は草の丈が短くなるとかの特殊事情がある。この現場としてのことを考えないで学問体系だけでは上手くいかないであろう。
 私は現場と学問とがうまくかみ合うようにすることが大切であると思う。
 
  教育をめぐる学問体系と現場のくいちがい
 教育をめぐる学問体系と現場のくいちがいはどこから来ているのであろうか?私の仮説であるが、教育が欧米的な哲学にかなり支配されていることにあるのではないかと感じている。欧米は近代を発展させるために、物と心を分離した。物を理解するために客観性・普遍性・論理性といった科学の知を発展させた。心のためには宗教か絶対理性とか心は物から独立して存在する哲学が必要となった。戦前も戦後も教育のベースとしては欧米の教育方針がある。しかしながら、宗教も哲学も必要としない日本人には上手く適応できない。そこで戦前の修身や教育勅語が必要となった。戦後は道徳や郷土愛や愛国心が必要となる。日本人は物心一元論であるから、物と心が別の考える二元論をベースとした欧米の教育とは上手く組み合わさらないのではないかと私は仮説している。
 私はこのような仮説を立てて考えている。その考えから、全ての教科も欧米的な位置づけを変えてみたらどうかと提案したい。例えば算数科の目標は教育指導要領で 「算数的活動を通して,数量や図形についての基礎的・基本的な知識及び技能を身に付け,日常の事象について見通しをもち筋道を立てて考え,表現する能力を育てるとともに,算数的活動の楽しさや数理的な処理のよさに気付き,進んで生活や学習に活用しようとする態度を育る。」とあるが、これだけでは算数の論理や計算の手法が上手くなれば良いだけとも考えられる。この中に仲間を大切にする、自分たちの郷土を愛する、公正さを大事にするとのみんなと一緒に生きていくこと大切さを算数的活動の中に取り入れておくことが必要であると入れることが必要であろうと思う。つまり算数的活動も一つの活動であり、物心両面の育ちの必要性を組み入れるべきではないかと思うのです。
 また、活動は「働き」「学び」「遊び」が併合されていると考えることが必要です。授業の前にみんなで授業の準備をするのは働きです。そして働くとは人のために動くとの国字ですから、みんなのためにとの考えがそこにはあります。次に導入段階として、教師からの教えがあり、それを学ぶ段階があります。次に学びを活用して、発展させることが必要となります。35ヶのキャラメルを5人でわけたら、1人当たり何ヶに分けられるかなどの具体的な場面を想定して、公平さを取り入れながら分配する方法を考えます。まず1ヶずつ配って1周りしたら、次の1ヶを配る方法や、見込みを立てて、6ヶずつやってみるなどの方法もあるでしょう。遊びの要素を入れながら、上手くモチベーションを高めていくことが必要となります。授業が終わったら後片付けでまた働きの場面となります。物心一元論の日本人は算数的活動と道徳的活動は矛盾しないで行なうことが出来ると思います。
 学問体系があることはとても便利なことがあります。前記のように35ヶのキャラメルを5人で分ければ7ヶづつです。しかし現場では概ね2ヶづつ分けてやることも多いものです。子どもに『人数を数えなさい。35ヶのキャラメルを何人でわけるのですか?』などと問いかけると自分を数に入れないで『5人』として、7ヶづつ分けたら、本人の分がなくなったとのこともあります。6人で分けると5ヶづつとなり5ヶ余りになります。その余りを独占する子ども、ジャンケンで勝った人からもらおうという子ども、『先生の分だよ』といってくれる子どもなどいろいろなことがあります。算数科の活動においても学問体系と現実との中で学びはたくさんあり、道徳的なこともたくさんあるのです。
このように考えると学問的体系と現場は常に往復しあっていることが大切であると思います。
  学問体系と現場2
 2013年用の研修会キーワードを作成した。
 1枚目が理論的なことで、①「働き」「学び」「遊び」の包括的な活動②ソーシャルワーク③多重知能理論④ユニバーサルデザイン⑤仮説証明法⑥臨床の知⑦注意の瞬き⑧ADHD⑨ならぬものなどを書いた。
2枚目に手法として①ツーパワー②アンダースタンド③多重知能理論の活用④男女の違い⑤ケースワークから意図的なグループワークへの発展⑥日本人の特性⑦身近な自然⑧目そらし方略⑨不思議⑩遊びの発達段階⑪静かなる集中⑫コスト⑬働きと学び⑭枠にはめない⑮異年齢交流⑯大きく小さく⑰CD的暗記法⑱悪いことをするのは手足⑲なぜ叱るのか?⑳科学の知を妄信しないなどを記した。
 3枚目が具体的な活動の内容である。①カプラ・ワミー②オニム・どぶつしょうぎ・バックギャモン③足して10になるトランプ④折り紙⑤チラシでの活動⑥ドングリブローチ・椿の実のカブトムシ⑦野草てんぷら会。どんぐりご飯⑧クローバーで遊ぼう⑨人間ボーリング・歩き歩き手つなぎ鬼⑩乞食がたくさんの王様と乞食⑪椅子の減らない椅子取りゲーム⑫味噌ラーメンジャンケン・ジャンケン陣取り⑬スリーパワー陣取り⑭5人組み集団ジャンケン・参りましたジャンケン⑮王様ドッジ・ツーパワーサッカー⑯わらべ歌(ののはな・ふきのとう・あきかんうた)
理論的なこと手法のこと具体的な活動は上手く連携をとってやることが必要である。現場と学問的体系は常にフィードバックされて互いに発展しあう関係でなければならないのではないかと思う。
定年退職後の私は少しでも現場と理論との架け橋になるために手法を開発しつつ、活動がスムーズに多くの子どもたちが出来るようにと考えている。
クローバーヒットの予感
クローバーヒットの予感
クローバーヒットの予感
クローバーヒットの予感
 白根への農道を走っていたら、ところどころに雑草の代わりにクローバーが植えてあり、きれいでした。私はこの5年くらいいろいろなところで雑草を抜き、代わりにグランドカバーとしてクローバーの種を撒く活動をしています。仲間が増えてうれしいなあ。
 クローバーでないと、雑草が背が高くなり、除草剤を撒いたり、機械で刈ったり大変です。
 クローバーは冬でも緑です。越後平野が稲の刈り取りが終わってもあぜが緑いっぱいだったら嬉しいなあ。雪の中のクローバーもすてきでしょう。

座布団折り3枚ユニットコマ
  創作折り紙 2 3枚簡易コマユニット
 3枚コマユニットは青山小学校の先生から、子ども達が教えてもらったのを私が子どもに教えてもらったものです。子どもから学ぶことはたくさんあるものです。ティーチング イズ ラーニングですね。ただ3枚コマユニットは最後の土台の1枚が勲章折りになるので、子ども達には難しい。ダイソーに25センチの大形折り紙を買いに行ったら、その裏に簡易なものがありました。それを少し変化させて、かっこよくしてみたのが3枚簡易コマユニット折り紙です。
 創造とはいいますが、ベースに模倣もあります。模倣がないと想像だけでは新しいものは出来ませんね。私はいろいろな折り紙を模倣して、それを簡単にする、動くものにする、色を変えるなどの手法を使って、子ども達が楽しめるようにと考えています。
 
http://tomoyanjun.web.fc2.com/3maikoma.html

反哲学入門

2012年8月31日 日常
 反哲学入門(新潮文庫)木田元著

 イオン南に出かけて、新潮文庫のYONDA100冊見つけた。これを私は100円と勘違いして、お買い得と思って買ったら、4冊で1600円ほどとなって一瞬びっくりした。でも見栄っ張りの私はそのまま購入して。それがこの一冊である。中身が濃く、衝動買いをしてよかったと思った。
 いつものように私流の要約をする。木田さんは哲学はソクラテスから始まったと考察している。それ以前には自然そのものをそのままと見ていたという。ソクラテス以後、人間存在そのものが何かを考えて、超自然的なもの・神的なもの・理性などなどをその背景にあると考えた。ここがヨーロッパ的であり、つくる・うむ・なるのなかで人間がつくることが自然を支配することにあり、根拠としての超自然的なものを考える必要性が出たという。つまり哲学は超自然的なる物の研究である。
 ところが日本人にとっては自然は現実としてあるものであり、超自然的な存在がなくても存在していると考えている。私流の表現で言えばある、なる、つくるとの上下関係である。そこで自然との共生が必要となるし、かりに人間の肉体は死んでも脈々と大自然の営みの中で生きていると考えることが出来るのではないだろうか?
 木田さんは哲学が基本的に自然とは別に超自然・理性・神の存在を研究するもので、ニーチェからは超自然的なものではなくて、自然そのものをそのまま捉えようとした意味で、哲学に対して反哲学であると主張されている。考え方はそのまま日本的な多くの自然の中に神がいるとの考えと一緒ではないかと私は思う。

 人間存在を自然の中の一部と考えてみると、自分という存在がなくなっても、自然の一部の中に(具体的には自分の子どもの遺伝子を通じてかもしれないが、大きな意味ではそれだけではない。)受け継がれていくことになるであろう。まず大きな意味での自然があり、その中でいろいろな現象が成り立っていく。それがなるではなかろうか。そしてなるの一部として人間が物事をつくるとのことがある。しかしながら、なるも大きな意味での自然のあるの一部であり、つくるはなるのそのまた一部であるだろう。ですからつくるのみが突出させる西洋哲学の限界がそこにはあるのではないかと私は思う。

 私はいろいろな地域や児童館などでの行事を企画している。この企画の過程でいつも他人と話が合わないことが多い。西洋的なつくるを主体に思考している人が『どのようにしてつくるか?』との主張が強いことに違和感があった。そして立案書の検討に時間をかけるのである。私はまずその場所があり、そこの自然があり、そこの場所に人がいて、その場所の歴史がある。そんな条件の中で何をなすことが出来るかを考える。もちろん私も主体的に取り組みのであるが、取り組む私自身も自然の材料の中の一つであるのだ。つくる概念だけでいろいろやってみても本当のことが見えてこないのである。
 もっと具体例で考えてみよう。折り紙の活動は昔からあった。この折り紙を私はアクション折り紙との手法を使って普及させようと考えている。しかしながら、演繹法的に折り紙の持つ教育的効果→具体的な展開の手法→子ども達の主体的な取り組み→活動の実施→具体的な成果→折り紙活動の手法の開発といった手法論で展開しているわけではない。折り紙という素材があり、子ども達がいて、特定の場所があり、特定の時間があるとの状況の中で、私がどのような展開が出来るかを考えているのである。結果的に子ども達が主体的に取り組み、効果があったら、それを少しずついろいろな場所に普及させ、帰納的に仲間つくりをしたいと考えているのである。演繹的と帰納的な展開は似ているけれどもどこかちょっと違うのである。まず健全育成の効果みたいなものが先に展開してもそこでの状況が無視されているのではないかと思う。
 自然の中で子ども達がのびのびと遊ぶのはとてもよい。海水浴は貴重な体験である。だから海水浴をしようと主張しても上手くはいかないであろう。自然的人的・外的内的な条件がどうなっているかを見極める必要がある。実は本当は自然的人的・外的内的な要件が海水浴との手法を求めているから海水浴を実施すると考えるべきであろうと思う。地域の祭りも同じである。地域での外的内的・自然的人的要因の成熟を上手く伸ばすことが必要である。どころがどうも、何をつくるべきかの観念論者達はあるべき姿を主張して、ある姿を見つけられなくなっているのではないかと思うのである。それが西欧的哲学の悪影響ではないかと私は思うのである。

 西欧的哲学に毒されたためか、全ての活動が基本理念があり、その基本理念を実現するための手法が提案され、そのための人的・財的・材的手段として何が必要かを論じるようになってきたように思う。そうではなくて、あるがままの現実の中で今何が『なる』方向性が求められているかを見極めていくことが必要ではないかと思う。『なる』方向性を見つけることは、謙虚な互いの研究的態度が必要であるので、たんなる多数決による民主的方法とは相容れないものが出てくることもる。ある程度『なる』方向性が見えてきて、いくつかの手法が提案されて、直接関係する人たちが自己決定する手段として多数決が必要な場合もないわけではない。しかしながら安易な多数決論議は『なる』の方向性を抜きにして何も生まないのではないだろうかと最近私は感じている。安易な多数決手段に頼るために自然があり、そこからなる方向性のためにいかにつくるに挑むかが見えてこなくなっているのではなかろうか?

権力と未練

2011年6月30日 日常
権力と未練
権力と未練?(平成23年6月19日)

児童健全育成指導士 田中 純一



権力と未練

ユングは権力は腐敗する。暴力は麻痺すると言っています。権力は腐敗するだけではなくて、本質的に権力には人を権力に固執させるものがあるようです。権力にある固執させるものとは何でしょうか?固執させるものがあるから未練が残るのでしょうから。



1.人を動かす力
 どうも人間は他人を好き勝手に動かしたいという本能的なものがあるように思います。「みんな。右向いて」と言って。みんなが右を向いたら、気分が良いですよね。権力はその力があるのではないかと思います。
 本来、その人が持っている実能力や魅力によって、みんなが魅了されて動く場合は本人もみんなもよいでしょう。能力もなく、魅力もないけれど、たまたまある地位に着き、権力を持った時、他人が「意のままに」動いた時に、誤解が生じるのではないでしょうか?

落語家が多くの人々を話術一つで楽しませるのにはそれだけの努力と経験がものを言っています。でも、努力や経験がなくて、たまたま着いた地位によって権力を持ち、みんなが自分の話を聞いたり、思い通りに動くことは、一つの権力による弊害ではないかと私は感じています。



2、権力と物や金

権力は大なり小なり、お金を集める力があります。例えば、自治会で考えてみましょう。当然自治会費・自治会事務委託料などのお金が集まります。自治会長なりの地位に着くと、そのお金を使う権力が生じます。お金を使って物を購入し、自治会員に配れば「」ありがとうございます』などと感謝される。人間は本能的に他人に物を配って感謝されることはとても嬉しいことだ。権力にはお金を集める力が付随する。自治会であれば、そのお金を自治会のより良い運営に使うのであるが、必ずしもそうならないこともある。自治会のより良い運営よりも自治会役員の懇親の方が重要であると主張する人もいる。役員は飲み会を通して、馴れ合いをして、自治会費を浪費することになる。自治会長は他人のお金で飲み食いさせて、自分が飲み食いさせていると勘違いすることができる。権力に付随して、物を他人にあたかも自分が配ったかのように配ることができることは、権力の持つ一つの強い力である。



3、権力と差別化

権力がある地位に着くとは他人と自分を差別化できることになる。議員を『先生。先生』とおだて上げ、自治会長となると『会長さん。会長さん』と名誉心をくすぐり、トップは『総理。総理』とコメントを取ろうと呼びかけたりするのは多くの人たちがやることである。みんなと自分は一緒と考える方がまともなのに、みんなと自分は違った存在であると感じることが人間の本能の一つなのかもしれない。



権力に固執したり、腐敗させたりしないためには?



物人金からと差別化ということから権力への固執や未練や腐敗について考えてみた。権力に惑わされたり、腐敗させたりしないための手法を考えてみたい。



1、多選をやめることであろう。

アメリカ大統領も2期8年が任期である。同じ人間が一定の権力を続けて持つのは良いことではない。自治会長なども10年表彰があるが、永年勤続表彰みたいな制度はあまりよくないと私は考えている。私の住む新潟市は20年表彰もある。60歳で定年退職して自治会長をやったとしても20年表彰を受けるためには80歳になってします。老害の部類に入るのではないだろうか。

日本では10年一昔との言い方がある。だから10年以上同じ人が同じ地位についていることはベターな選択ではないのではと思う。自治会長など、引退勧告をすべきであろう役所が20年表彰までして老害を助長しているのではないかとも思う。いくら立派な人でも老いがくる。老いてしまったときに自分の引き際を自覚できるように自分自身が一番考えていかなければならないことではないかと思う。同時にいつも研究心を忘れずに、新しい物を求めて、チャレンジし続けることも大切だ。でも、それは権力にしがみつくこととは別であると考えることが必要ではないか。





2、平時においては、極端な一極集中をやめるべきであろう。

ボランティアの団体などは3人5人会長制度が良いと考えている。会長が1人に副会長が2人なら、会長3人にして合議で決めるのが良いと考える。すると極端な権力集中がなくなり、また、3人寄れば文殊の智恵みたいなもので、助けあいが出て来て、会の運営はスムーズとなる。

同様に自治会の役員などは大勢にすれば良いと思う。PTAの役員もである。役員数を多くして、一人ひとりの負担が少なくなるようにすれば、誰でも役員等をやれるようになるのである。

戦時や緊急時においては、権力は集中させなければならないことがある。この場合は後日に検証されることを制度的にきちんと作っておくことである。闇から闇へと葬ることでは権力を握って悪いことをしてぼろ儲けしたものの勝ちとなるようではいけない。



3、どのように物やお金が出て来ているかをしっかりとみんなが自覚することである。

勤労なくして、物やお金が出てこないことを自覚するべきである。マルクスの資本論を共産主義と誤解している人がいるが、マルクスは資本がどのように価値を生み出しているかを基本的に分析したものである。分析の結果、価値は勤労の積みかさねであるとマルクスは言っている。この価値を一方的に独占することがおかしいとマルクスは言っているのである。

自治会で考えてみれば、自治会費の主体は税金である自治会事務委託料などや自治会員の会費である。このことを自治会長等は自覚するべきだ。そして自治会費を活用して、自治会員が協働してボランティア的に活動することで100万円の自治会費を200万円以上の価値へと高めることが必要である。この時に、高まった価値100万円分の中の一部が会長謝金や役員報酬となる。100万円の自治会費を100万円以上の価値を産む活動をしないで、報酬だけを求めるならば、それはおかしいと私は思う。

働き蜂は本当はあまり働いていないとの話は、NHKのアインシュタインの眼で知りました。働き蜂は3分の1しか働いていないのだそうです。後の3分の2は巣が壊されるなどの非常時に備えているとのことでした。蜂よりは賢そうな人間が動くことは価値をたくさん産むことだと私は思います。自らが動いて価値を産むようにしたいものです。ですが、世の中には自分が働かないで、他人を働かして、自分がその成果物を取得してしまう人も多いものです。働くとは本当は人のために動くと書く、国字です。



4、妥当である報酬が必要である。

報酬が極端に少ないと、権力や地位を握った人は別の場所で応分の報酬を求めてしまう。やはり妥当な報酬は必要である。同時に報酬が極端に多いと報酬を得るために能力のない人までがその地位を獲得しようとする。

報酬がどの程度であるべきかは難しい。児童館児童クラブの職員などは同等の仕事をしていて、年収600万円くらいから100万円以下までがあり、その格差は6倍以上あることもある。そして年収の高い職員ほど働かないと言う感じである。こんな風に見てみると、妥当な報酬のちょっと下程度が良いのかもと思う。



5、努力をすればある程度報われる制度を作ることだ。

児童館・児童クラブには資格認定制度がある。児童厚生員2級指導員・児童厚生員1級指導員・児童厚生1級特別指導員・児童健全育成指導士などの資格がある。資格を取りながら、自分の学習を伸ばしていくことができる。一回資格をとったら、それで永遠ではない方が良いと私は思う。しかしながら、同時に資格が形骸化することも確かである。実際の能力はないけれど、資格だけはどんどん暇と金をかけて盗る人もいるものだ。だから、世の中は難しい。



6、権力の乱用を慎む文化をみんなで作ることが必要だ。

「赤信号みんなで渡れば怖くない」との考えがある。権力を乱用して、利己主義的に振舞うのが当たり前の文化になれば、みんなそのようになってしまう。役人は賄賂をもらうのが当然であるとの文化もある。仕事を発注したら、バックマージンが入る。盆暮れには多額の物品が届くみたいな文化はおかしいのではないだろうか。

私が30年前に児童厚生員のブロック研修会に行ったときのことである。国立青年の家で寝ようとしたら、同室の公務員である児童厚生員が話していた。

「児童クラブの担当はいいよね。親から付け届けがある。付け届けをするなら、現金が良いね」との趣旨の話をしていた。こうした児童クラブや児童館はきっとダメになると私は思った。案の定、10年後に委託事業となった。

 賄賂を提案してきた人が

「誰も知らないから、ぜひ受け取ってください」と言う。これに対して

「天知る、地知る、我知る、汝知る(子知る)」と答えたとの故事がある。朝の連続ドラマでないけれどお日様も含めて、誰かがどこかで見ているのである。そうした文化を作りたいものだ。



 7、無駄を完全になくすことはできない。

 とかく権力者は無駄なことをして、利益をむさぼるような言い方をされることが多い。しかし、無駄のないことはありえないと考えることが必要であると思う。野球選手だって、3割打てれば大打者である。価値論的に考えてみると、人間の仕事はすべて無駄のない働きなどありえない。また、人間の働きは、お金的に表現してみると、上手くいけば、100万円の労働の投資で300万以上の価値を産むことがあるものだ。10のチャレンジで3割ほどでも大成功をすれば、それはそれで投資以上の価値を産んでいることが多いものだ。多少の無駄は考慮されるべきであろう。

 雨が降らないと思って、水撒きをしたら、雨が降ってきた場合で考えてみよう。確かに水撒きをしたことは無駄になった。しかしながら、雨が降って来ないで、花が枯れてしまえば、そのロスは多大なものになる。天気予報で雨が降らないと思って、水を撒くことは雨が降ってしまった場合の無駄よりも、雨が降らなかったときのことを考えて対処すべきであろう。原発事故を含めても考え方は一緒である。万が一の事故に備えて準備をしておくことは、一見無駄のように見えるが実は無駄ではないことが多いのである。

 無駄を完全になくすとの考えはこうした点から考えてみても難しいことだ。

 完全に無駄をなくすのではなくて、ある程度の無駄は想定内にしておくことが必要である。





いろいろなことを考えてみたが、なかなか世の中は難しい。でも基本に戻ってみると、ユングのいう『権力は腐敗する。暴力は麻痺する』との格言を思い出して、自分自身を常に見直すことが必要ではないかと思う。



 平成23年6月23日追加



 権力とは何かを考えてみた。権力は同時にある観点から、人を殺すことも命ずることができる。つまり合法的であれ暴力性を内在しているのである。実は人間の中にも暴力性が内在している。
 ゴキブリさんなどが出て来て、みんなが騒ぐと、ある意味では私は嬉しくなっている。私はゴキブリが怖くない。みんなに賞賛されて、生き物であるゴキブリを駆除できるのである。これも大きな意味では合法的な殺虫罪ではないだろうか。人間の中には暴力性が内在していることを自覚しなければならない。

 権力者が財産等を独り占めすると、経済が悪化する。実は1000万円あったとして、1000万円を1年間タンスに入れておいても、1000万円でしかない。
 マルクスの理論から言えば、1000万円が有効に使われて、4回転したとする。すると1000万円は2000万円になる。このことで経済は活性化する。価値とはマルクスの言葉を借りれば、勤労の蓄積である。1000万円という貨幣を通して、勤労が蓄積されていくことが大切である。
 1000万円で永原工務店に家のリフォームを頼んだとする。永原工務店は様々な職種の人たちに材料や仕事を依頼する。様々な職種の人たちがまた次の人に仕事を依頼する。こうした回転の中で、様々な職種の人たちの勤労が価値として蓄積されることになる。資金及び物品及び人が活動する中で、価値が作られていくのである。
 したがって、権力による不正蓄財やたんにケチであることは、経済的不利益を生むことがあっても、経済的利益を生ずることがないことはマルクスの考えからも明らかであろう。

 権力を暴力とお金からも考えてみた。
 

ちーちゃんが泊まる
 ちいちゃん(1年前2歳10ヶ月・現在3歳から4歳へ向かいつつある)を泊め始めてから、10ヶ月位が過ぎようとしている。

 3月31日に職場を退職して、初めて、ちいちゃんが泊まることになった。今までは、ちいちゃんの付録として小学生がついてきていた。今回はどちらかと言うば、ちいちゃんが付録で小学生5人くらいが主役になるかもしれない。

 退職する前は6時半とか7時までの仕事であった。帰りにちいちゃんたちを車に乗せて、夕ご飯を買って帰るか、連れ合いに作ってもらうのが精一杯であった。これからは、夕方4時位に集合して、子ども達にマンションでカレーなどを作られることにした。

 二つの理由がある。一つはなんといっても作ったほうが安いことである。2番目はそれ以上に子ども自身が子どもの力で夕飯を作る経験が大切であるからだ。

 ジャガイモ・ニンジン・タマネギ・肉・トマト・リンゴなどをたくさん買ってきて、夕飯と朝飯とお昼ご飯をカレーにしようと思う。量が多いから、タマネギも10ヶ以上となる。子どもはタマネギと格闘して、料理名人になるというものだ。

 働きと遊びと学びのバランスがよくないので、子どもが上手く育っていないといのが、私の仮説です。この仮説が正しいとすれば、料理などの働きをすれば、子どもは楽しく働くでしょう。また、核家庭になったために、カレーなどを作る場合に子どもは邪魔にしかならない。でも10人分を3食作れば、30人分を作ることになる。すると、材料の量が増えて、子どものお手伝いの場面が多くなる。また、タマネギに何回もチャレンジするから、技術の向上になると私は思います。

 ということで、今回はみんなでカレー作りをしてみたいと思います。
子どもにお手伝いを
 一般的に児童館では遊びを通して健全育成をし、学校では学習を通して人格陶冶(=教育)をすることになっている。私は最近それに疑問をもち始めている。

 昔、ほんのちょっと昔まで、日本でも子どもは貴重な労働力であった。50年ほど前、私の父は小学校の分校の教員をしていた。父は田植えや稲刈りの農繁期になると、学校に子どもを寄越さないで農作業をさせている保護者に学校に寄越すように話に行っていた。今では子どもが学校にきたくないという時代だが。半世紀前までは違っていたのだ。(義務教育の本来の意味は国家と親権をもつ保護者に子どもに教育を与える義務との意味で義務なのだ。)

 ですから人類の歴史がかりに50万年だとすれば、1万分の1の50年の間に、日本の子どもは作業や労働をしなくなったのである。日本列島に日本人が移動してきたのは1万年前くらいらしい。そうすると9550年、日本の子どもは作業をしていて、たったこの50年間の間に、作業やお手伝いをしなくなったことになる。子どもが作業や労働力であった時代には、遊びや学びはとても大切であった。「よく遊び、よく学べ」の言葉の裏にはしっかりと貴重な労働をしていた子どもの存在がある。しかし作業やお手伝いがなくなると、朝から晩まで遊んだり学んだりしていることになる。これは不健全である。
 家庭でも地域でも子どもに作業やお手伝いをさせなくなって時代には、児童館や学校や地域で子どもに作業やお手伝いをさせることが必要である。
 遊びや学びはある意味では生産的なことではない。消費的な行為である。草取り・お手伝いを子ども達としないと日本の子どもの未来はないのではと危惧する。
 昨日(平成22年12月11日)は自然科学館に行く日であった。いつもは朝学習をして清掃活動をするのだが、昨日は朝学習をやめて、松の葉集めをした。90リットルのゴミ袋に6ヶも集まった。
 児童館や児童クラブでは1に作業・2に労働・3におやつ・4に遊び・5に学習ではないかと思う。このように活動すれば、子どもはアイデンティティをもち、生き生きと遊び始めるのである。
 嘘とお思いの方はお試しあれ。

その2
児童館や児童クラブそして児童センターで作業を取り入れた場合に、作業の対価はどうなるかを考えてみたい。簡単に言ってみると、児童館・児童センター・児童クラブを運営するためには多額の税金が投与されている。その全額を労働対価で返せというのではないが、ほんの少しくらいは労働や作業で社会貢献をすべきではないかと私は思うのである。
 草取りをして、花を植えて、酸素供給をする。芝生に水やりをする。地域をきれいにする。除草剤を撒かないでアトピーを防ぐ。木の剪定をして、犯罪を防ぎ、風通しをよくするなどなど地域作りのための作業はたくさんある。こうした活動を広めていくことは、多額の税金等を使っているのだから、ある意味では当然であろう。そして、このような社会貢献は実は、自分たちの地域や住んでいる場所の環境整備であり、自分のためになるのである。
 年金にも多額の税金が使われているが、多くのお年寄りは自分が遊ぶことのみを中心にしているように思う。やはりお年寄りにも社会貢献をしてもらう必要があると私は思っている。公園の整備・道の街路樹の下の花植え・自分の家の前の道のゴミ拾いなどなど周りを見れば、いろいろな社会貢献がたくさんあるのです。こうした社会貢献をしないで、年金をもらい、老人施設のお風呂に入り、駐車料金をただにせよと怒鳴っている人たちもいます。このような人たちはバブルでの狭い経験からしか学んでいないのではないかと思ったりもします。
 児童健全育成は作業かな?との意味は子どももお年寄りも社会貢献の場面を作ってあげないとアイデンティティが確立できなくなるのではないかとの提案です。朝から晩まで遊ぶのではなくて、8時間の内、2時間くらいは社会貢献・2時間は学習・後の4時間は遊びなどの自由時間にしたらとの提案です。そして社会貢献をきちんとできる子どもを作ることができれば、その力は自由時間の充実にもつながると思うのです。
 作業できちんとA4サイズの紙を正方形に裁断できるようになれば、折り紙遊びも上手くなるという関係性にあると思います。ほんの50年前の子どもは作業をたくさんさせられていたから、遊びを提供することが必要だったでしょう。今の子どもは基本的な作業やお手伝いをしていません。ですから、作業やお手伝いをきちんと教えることが児童館や児童クラブや児童センターでも必要です。
 こんな風に考えてやり始めていたら、最近の保育士や児童厚生員や教員はきちんとした作業が出来ない人が多いことに気がついてきました。草取り・木の剪定・お茶だし・トイレ清掃・館内外清掃などを見ても上手に出来る人が少なくなってきました。そこが問題かな。有明の子どものほうがちゃんとできるように思います。
 と思ってみたりしています。

その3
 日本人の良さは、どんな人でも草取り・ゴミ拾い・清掃などができることにあると私は考えています。階級性が厳しい文化の国々では、知識階級や上流階級や支配階級が、この種の活動をすることはありません。イギリスでもインドでも中国でも朝鮮でもインドでもスリランカでもごみ収集の仕事は上流階級の仕事ではありません。これは日本で武士が支配階級になったことと関連があると私は思っています。武士の先祖は文化人類学的にマタギの仲間であったようです。マタギは山で暮しますから、清掃も調理もお茶だしも自分ですることが必要となります。この文化が武士の文化に受け継がれて、武士はお茶を出すことを家長の大切な仕事にしました。武士のこうした文化は公家の下のものに何かをやらせる文化よりも私は良いと思います。だから日本の子ども達にもお茶だしや清掃や花植えなどの作業やお手伝いをする文化を伝えることが大切と思うのです。
 もう一つはマタギは山に銭金(ぜにかね)を持っていくことはできません。里に残る女性がお金を管理することになります。この結果、日本ではお金の管理を女性がする文化が生まれたようです。この文化も私は良い文化と思います。日本の女性は実は世界中の中で一番権力を持っているおかみさんであるように思います。そのおかみさんがトイレ掃除をせっせとやるのですから、我々もやらなければならないのかもしれません。

民主党の代表選のるんさんのコメント
 民主党の代表選についてるんさんの話が載っていた。そこで私もコメントを書いてみたのでここにコピーを残しておきたいと思った。以下はコメントのコピー

 私も小沢さんの落選が嬉しかった組ですね。私は見た目はあまり関係ないのですが、本人が嘘を言っているか、本当のことを話をしているかはわかるような気がしています。

 子どもの現場であかちゃんや小学生や大人とたくさん話をしていると、言葉ではないコミュニケーションが大切なことがわかってきます、「紙飛行機作る?」「しない」との応答の中で「しない」との男の子の答えは「やりたいけど自分は上手く作れそうもないからしない」との意味と「私はそんなに安易にあなたのいうことをきかないよ。だから取り合えずしない」との場合があります。本当にする気が子どもにない場合は無視するか他のことに気をとられていて返事をしないかです。そこで飛行機を作ってやって「飛ばそう」「今度は作ろう」などともちかければすぐに仲間に入ってきます。

 そこで小沢さんが本当に土地の売買に関与していないか、本当に知らなかったのなら「俺は知らなかった」を通せば良いのです。ところが「検察庁が調べてもクロと断定できなかったからクロではない」というようなことを言っているのはクロである証拠でもあると私はおもいます。そんな点から小沢さんの首相には反対ですね。

 追加の話
  子どもとふれあっていると子どもの話していることと思っていることが一致していないことが多いことに気づくことが多い。「00ちゃんなんて大嫌い」というのはほとんど「大好き」のことが多い。「一緒に遊ぼう」との提案に「絶対に遊ばない」というのは「ぜひ仲間に入れてくれ」とのことが多い。

 私たちは言語に流されすぎているのではなかろうか。言語のことをバーバルという。バーバルによるコミュニケーションにこだわりすぎて非言語的コミュニケーションを軽視しすぎている。ノンバーバルコミュニケーションが人間の種としての基本ではなかろうか。このように考えてみると言葉に頼らないコミュニケーションを重視することが必要である。ところが矛盾するようであるが、ノンバーバルコミュニケーションを重視すると真の意味での言葉によるコミュニケーションの大切さも分かってくるのである。ノンバーバルコミュニケーションを行うことは言葉の持つ大切さをさらに感じさせ、言葉が言霊へと重要性をもつようになるのではなかろうか。しかし同時に言霊にも自分を支配されてはならない面もあり、永遠の問題となるようだ。考えてみれば生きるということはそんなものなのかもしれない。

 もとに戻って、言葉に頼らない努力をすることもとても大切で、子どもたちとのふれあいの基本はノンバーバルコミュニケーションであり、その発展の中に意味深い言葉の世界が広がるのではないかと私は感じている。

クローバーから健全育成
クローバーから健全育成
クローバーから健全育成
 平島公園(2千坪)をきれいにし始めて10年になる。最初は草刈りをしていた。次に背の高い草を抜くことを始めた。ついで木の剪定をやり始めた。

 最近、気づいたことがある。それは木の下やフェンスの下遊具の下等は草刈りが難しい。どうしても背の高いスズメノカタビラ・ウシハコベ・イネ科の雑草がはびこる。

 これを根こそぎにして、クローバーの種を撒くことを思いついた。これは村松の公園で冬でもクローバーが生えていたことを発見したことが契機であった。

 この作戦は大成功。有明児童センターや平島公園だけではなくて、街路樹の下や駐車場にもやり始めた。

 雑草は生えなくなって、代わりに緑のクローバーが冬でも元気です。

 発想を常に変えて、面白い手法を見つけることが大切である。

 写真1は平島公園の脇・写真2は村松公園・写真3はクローバー公園である。
犯罪率と日本の治安と健全育成
 すぐに他国のやっていることを真似をするのは良いことであるが、他国と比較して母国を批判するのがやめた方が良いと私は思う。

 「学者」達は昔はスウェーデンが福祉国家といい、それが廃ると教育はフィンランドが良いという。最近の本で見たら児童虐待の取り組みが一生懸命なのはニュージーランドだとニュージーランドの紹介がされていた。

 私流の考えではこうした他国の良い点をあげて日本の良さを見ないか否定するような「学者」は困りものであるということだ。

 日本とスウェーデンとフィンランドとニュージランドの1年あたりの10万人の殺人事件件数を見ると以下のようになる。
日本1・10 スウェーデン1・87 フィンランド9・66 ニュージランド3.99である。(ICPO調査犯罪率統計よりhttp://ms-t.jp/Statistics/Data/Crimerate.html
 新潟市は80万都市であるが、これで換算すれば新潟市で8件の殺人事件があればニュージランドの同程度の都市では30人の殺人事件があるということになる。30人とは1ケ月に3回程度の殺人事件が起きていることになる。こうした風土ののおいては当然のことながら暴力的風土があるということになり、児童虐待のケースも多くなるであろう。だから児童虐待防止のための親教育も必要となるであろう。

 日本の場合で考えてみよう。日本は基本的に子ども中心の社会である。この子ども中心の社会こそが犯罪を少なくしている。そして暴力が支配する風土の抑止力となっていると考える。暴力が支配する風土においては子どもは尊重されることはない。暴力が支配する風土にしないことは個人の権利を声高に主張しないことではないかと考える。「権利」は互いの衝突を呼ぶ。そして「権利」の主張合いが暴力的な解決へとむかう。と仮定して私は行動している。そこで「権利」の主張よりも互いの上手い解決の手法を探ることが必要である。

 「権利」の主張から上手い解決の手法を探ることは私流の考えでは「ダメなことはダメ」を通すことであると考える。子どもがオモチャの奪い合いから殴り合おうとしたら「殴るのはダメ」としっかり伝えることは必要である。そしてそれでもやるならばにこやかに近づいて殴った手を捕まえて「この手はダメ。」と手を叩いて痛みを感じさせ「でもあなたは良い子」と教えることが必要である。

 叩いてはいけない。ダメと言ってはダメなどの考えは現場では通用しない。ダメをしっかりいえないようなことでは世の中は成り立たない。日本社会はダメなことはダメ。危険なことにはバシッと叱ることで成り立ってきていたと私は思う。
ドングリとクローバーと芝
 職場の松の木の剪定の必要が出てきた。そこで石川緑樹さんに見積もりをしてもらうことのなった。

 見積もりにきた方とお話をしていたら、ドングリが大好きとの話が出てきた。私と同じ趣味だ。いろいろなどんぐりが新潟県内のどこにあるかなどの話も出てきた。佐渡にはスダジイがたくさんあるとも聞いた。

 クローバーをクローバーでいっぱいにすることは難しいとの話が出た。他のイネ科の雑草に負けるからだという。除草剤を撒くとクローバーがまず枯れてしまうという。だから手でクローバー以外の雑草をぬくしかないとのことが。このことには私はわかっていた。新発田にクローバーの種を撒いたが他の雑草に半年で負けてしまって一つもなくなったからだ。

 職場のクローバー公園は子どもや職員・実習生と一緒に手作業で頑張っている。だからクローバーだけで緑半分になった。1千坪以上の土地がクローバーで緑いっぱいになるのはあと半年だ。

 芝が秋から冬に元気がなくなるのはやはり落ち葉が落ちて太陽が当たらないことによることもわかった。これはそうではないかなあと感じていたので、今年からブロウ&バキュームを使って落ち葉を拾い始めていた。もちろんそれまでは子どもと一緒にビンビラで落ち葉集めをしていたことで気づいたことだ。落ち葉集めや草取りなどが昔から行われていたのにはそれなりの訳があったのだ。

 除草剤ではダメなのだ。

チューリップ

2008年4月21日 日常
チューリップ
 新潟市が政令都市になることの祝いにチューリップで町を飾ろうとの運動がありました。私の職場も自治会もこの運動に賛同してチューリップの球根を2400球植えました。今はチューリップが満開できれいです。

 手入れが行き届いていると人の眼があると感じて犯罪者も近寄らないようです。そんな犯罪防止の観点からも環境整備は大切と思います。

穏やかなお正月

2007年1月3日 日常
穏やかなお正月
 珍しく穏やかなお正月になって喜んでいます。昨年は豪雪や大停電・その前は大水・その前は地震と悪いことが重なったここ数年でした。2007年がよい年でありますように。

 よい年になるにはたしかにみんなの努力も必要でしょうが、天変地異などままならないこともあるものです。うまくいったら儲けものくらいの気持ちでいかなくてはならないのでしょう。

 明日は仕事始め。冬休みで朝からこどもが来て、多忙な時間が過ぎていくことになるでしょう。今日もう一日のんびりと過ごそうかと思っています。でもこの間も忙しく働いている人もいるわけでご苦労様と感じる今です。

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