反哲学入門(新潮文庫)木田元著
イオン南に出かけて、新潮文庫のYONDA100冊見つけた。これを私は100円と勘違いして、お買い得と思って買ったら、4冊で1600円ほどとなって一瞬びっくりした。でも見栄っ張りの私はそのまま購入して。それがこの一冊である。中身が濃く、衝動買いをしてよかったと思った。
いつものように私流の要約をする。木田さんは哲学はソクラテスから始まったと考察している。それ以前には自然そのものをそのままと見ていたという。ソクラテス以後、人間存在そのものが何かを考えて、超自然的なもの・神的なもの・理性などなどをその背景にあると考えた。ここがヨーロッパ的であり、つくる・うむ・なるのなかで人間がつくることが自然を支配することにあり、根拠としての超自然的なものを考える必要性が出たという。つまり哲学は超自然的なる物の研究である。
ところが日本人にとっては自然は現実としてあるものであり、超自然的な存在がなくても存在していると考えている。私流の表現で言えばある、なる、つくるとの上下関係である。そこで自然との共生が必要となるし、かりに人間の肉体は死んでも脈々と大自然の営みの中で生きていると考えることが出来るのではないだろうか?
木田さんは哲学が基本的に自然とは別に超自然・理性・神の存在を研究するもので、ニーチェからは超自然的なものではなくて、自然そのものをそのまま捉えようとした意味で、哲学に対して反哲学であると主張されている。考え方はそのまま日本的な多くの自然の中に神がいるとの考えと一緒ではないかと私は思う。
人間存在を自然の中の一部と考えてみると、自分という存在がなくなっても、自然の一部の中に(具体的には自分の子どもの遺伝子を通じてかもしれないが、大きな意味ではそれだけではない。)受け継がれていくことになるであろう。まず大きな意味での自然があり、その中でいろいろな現象が成り立っていく。それがなるではなかろうか。そしてなるの一部として人間が物事をつくるとのことがある。しかしながら、なるも大きな意味での自然のあるの一部であり、つくるはなるのそのまた一部であるだろう。ですからつくるのみが突出させる西洋哲学の限界がそこにはあるのではないかと私は思う。
私はいろいろな地域や児童館などでの行事を企画している。この企画の過程でいつも他人と話が合わないことが多い。西洋的なつくるを主体に思考している人が『どのようにしてつくるか?』との主張が強いことに違和感があった。そして立案書の検討に時間をかけるのである。私はまずその場所があり、そこの自然があり、そこの場所に人がいて、その場所の歴史がある。そんな条件の中で何をなすことが出来るかを考える。もちろん私も主体的に取り組みのであるが、取り組む私自身も自然の材料の中の一つであるのだ。つくる概念だけでいろいろやってみても本当のことが見えてこないのである。
もっと具体例で考えてみよう。折り紙の活動は昔からあった。この折り紙を私はアクション折り紙との手法を使って普及させようと考えている。しかしながら、演繹法的に折り紙の持つ教育的効果→具体的な展開の手法→子ども達の主体的な取り組み→活動の実施→具体的な成果→折り紙活動の手法の開発といった手法論で展開しているわけではない。折り紙という素材があり、子ども達がいて、特定の場所があり、特定の時間があるとの状況の中で、私がどのような展開が出来るかを考えているのである。結果的に子ども達が主体的に取り組み、効果があったら、それを少しずついろいろな場所に普及させ、帰納的に仲間つくりをしたいと考えているのである。演繹的と帰納的な展開は似ているけれどもどこかちょっと違うのである。まず健全育成の効果みたいなものが先に展開してもそこでの状況が無視されているのではないかと思う。
自然の中で子ども達がのびのびと遊ぶのはとてもよい。海水浴は貴重な体験である。だから海水浴をしようと主張しても上手くはいかないであろう。自然的人的・外的内的な条件がどうなっているかを見極める必要がある。実は本当は自然的人的・外的内的な要件が海水浴との手法を求めているから海水浴を実施すると考えるべきであろうと思う。地域の祭りも同じである。地域での外的内的・自然的人的要因の成熟を上手く伸ばすことが必要である。どころがどうも、何をつくるべきかの観念論者達はあるべき姿を主張して、ある姿を見つけられなくなっているのではないかと思うのである。それが西欧的哲学の悪影響ではないかと私は思うのである。
西欧的哲学に毒されたためか、全ての活動が基本理念があり、その基本理念を実現するための手法が提案され、そのための人的・財的・材的手段として何が必要かを論じるようになってきたように思う。そうではなくて、あるがままの現実の中で今何が『なる』方向性が求められているかを見極めていくことが必要ではないかと思う。『なる』方向性を見つけることは、謙虚な互いの研究的態度が必要であるので、たんなる多数決による民主的方法とは相容れないものが出てくることもる。ある程度『なる』方向性が見えてきて、いくつかの手法が提案されて、直接関係する人たちが自己決定する手段として多数決が必要な場合もないわけではない。しかしながら安易な多数決論議は『なる』の方向性を抜きにして何も生まないのではないだろうかと最近私は感じている。安易な多数決手段に頼るために自然があり、そこからなる方向性のためにいかにつくるに挑むかが見えてこなくなっているのではなかろうか?
イオン南に出かけて、新潮文庫のYONDA100冊見つけた。これを私は100円と勘違いして、お買い得と思って買ったら、4冊で1600円ほどとなって一瞬びっくりした。でも見栄っ張りの私はそのまま購入して。それがこの一冊である。中身が濃く、衝動買いをしてよかったと思った。
いつものように私流の要約をする。木田さんは哲学はソクラテスから始まったと考察している。それ以前には自然そのものをそのままと見ていたという。ソクラテス以後、人間存在そのものが何かを考えて、超自然的なもの・神的なもの・理性などなどをその背景にあると考えた。ここがヨーロッパ的であり、つくる・うむ・なるのなかで人間がつくることが自然を支配することにあり、根拠としての超自然的なものを考える必要性が出たという。つまり哲学は超自然的なる物の研究である。
ところが日本人にとっては自然は現実としてあるものであり、超自然的な存在がなくても存在していると考えている。私流の表現で言えばある、なる、つくるとの上下関係である。そこで自然との共生が必要となるし、かりに人間の肉体は死んでも脈々と大自然の営みの中で生きていると考えることが出来るのではないだろうか?
木田さんは哲学が基本的に自然とは別に超自然・理性・神の存在を研究するもので、ニーチェからは超自然的なものではなくて、自然そのものをそのまま捉えようとした意味で、哲学に対して反哲学であると主張されている。考え方はそのまま日本的な多くの自然の中に神がいるとの考えと一緒ではないかと私は思う。
人間存在を自然の中の一部と考えてみると、自分という存在がなくなっても、自然の一部の中に(具体的には自分の子どもの遺伝子を通じてかもしれないが、大きな意味ではそれだけではない。)受け継がれていくことになるであろう。まず大きな意味での自然があり、その中でいろいろな現象が成り立っていく。それがなるではなかろうか。そしてなるの一部として人間が物事をつくるとのことがある。しかしながら、なるも大きな意味での自然のあるの一部であり、つくるはなるのそのまた一部であるだろう。ですからつくるのみが突出させる西洋哲学の限界がそこにはあるのではないかと私は思う。
私はいろいろな地域や児童館などでの行事を企画している。この企画の過程でいつも他人と話が合わないことが多い。西洋的なつくるを主体に思考している人が『どのようにしてつくるか?』との主張が強いことに違和感があった。そして立案書の検討に時間をかけるのである。私はまずその場所があり、そこの自然があり、そこの場所に人がいて、その場所の歴史がある。そんな条件の中で何をなすことが出来るかを考える。もちろん私も主体的に取り組みのであるが、取り組む私自身も自然の材料の中の一つであるのだ。つくる概念だけでいろいろやってみても本当のことが見えてこないのである。
もっと具体例で考えてみよう。折り紙の活動は昔からあった。この折り紙を私はアクション折り紙との手法を使って普及させようと考えている。しかしながら、演繹法的に折り紙の持つ教育的効果→具体的な展開の手法→子ども達の主体的な取り組み→活動の実施→具体的な成果→折り紙活動の手法の開発といった手法論で展開しているわけではない。折り紙という素材があり、子ども達がいて、特定の場所があり、特定の時間があるとの状況の中で、私がどのような展開が出来るかを考えているのである。結果的に子ども達が主体的に取り組み、効果があったら、それを少しずついろいろな場所に普及させ、帰納的に仲間つくりをしたいと考えているのである。演繹的と帰納的な展開は似ているけれどもどこかちょっと違うのである。まず健全育成の効果みたいなものが先に展開してもそこでの状況が無視されているのではないかと思う。
自然の中で子ども達がのびのびと遊ぶのはとてもよい。海水浴は貴重な体験である。だから海水浴をしようと主張しても上手くはいかないであろう。自然的人的・外的内的な条件がどうなっているかを見極める必要がある。実は本当は自然的人的・外的内的な要件が海水浴との手法を求めているから海水浴を実施すると考えるべきであろうと思う。地域の祭りも同じである。地域での外的内的・自然的人的要因の成熟を上手く伸ばすことが必要である。どころがどうも、何をつくるべきかの観念論者達はあるべき姿を主張して、ある姿を見つけられなくなっているのではないかと思うのである。それが西欧的哲学の悪影響ではないかと私は思うのである。
西欧的哲学に毒されたためか、全ての活動が基本理念があり、その基本理念を実現するための手法が提案され、そのための人的・財的・材的手段として何が必要かを論じるようになってきたように思う。そうではなくて、あるがままの現実の中で今何が『なる』方向性が求められているかを見極めていくことが必要ではないかと思う。『なる』方向性を見つけることは、謙虚な互いの研究的態度が必要であるので、たんなる多数決による民主的方法とは相容れないものが出てくることもる。ある程度『なる』方向性が見えてきて、いくつかの手法が提案されて、直接関係する人たちが自己決定する手段として多数決が必要な場合もないわけではない。しかしながら安易な多数決論議は『なる』の方向性を抜きにして何も生まないのではないだろうかと最近私は感じている。安易な多数決手段に頼るために自然があり、そこからなる方向性のためにいかにつくるに挑むかが見えてこなくなっているのではなかろうか?
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