権力と未練

2011年6月30日 日常
権力と未練
権力と未練?(平成23年6月19日)

児童健全育成指導士 田中 純一



権力と未練

ユングは権力は腐敗する。暴力は麻痺すると言っています。権力は腐敗するだけではなくて、本質的に権力には人を権力に固執させるものがあるようです。権力にある固執させるものとは何でしょうか?固執させるものがあるから未練が残るのでしょうから。



1.人を動かす力
 どうも人間は他人を好き勝手に動かしたいという本能的なものがあるように思います。「みんな。右向いて」と言って。みんなが右を向いたら、気分が良いですよね。権力はその力があるのではないかと思います。
 本来、その人が持っている実能力や魅力によって、みんなが魅了されて動く場合は本人もみんなもよいでしょう。能力もなく、魅力もないけれど、たまたまある地位に着き、権力を持った時、他人が「意のままに」動いた時に、誤解が生じるのではないでしょうか?

落語家が多くの人々を話術一つで楽しませるのにはそれだけの努力と経験がものを言っています。でも、努力や経験がなくて、たまたま着いた地位によって権力を持ち、みんなが自分の話を聞いたり、思い通りに動くことは、一つの権力による弊害ではないかと私は感じています。



2、権力と物や金

権力は大なり小なり、お金を集める力があります。例えば、自治会で考えてみましょう。当然自治会費・自治会事務委託料などのお金が集まります。自治会長なりの地位に着くと、そのお金を使う権力が生じます。お金を使って物を購入し、自治会員に配れば「」ありがとうございます』などと感謝される。人間は本能的に他人に物を配って感謝されることはとても嬉しいことだ。権力にはお金を集める力が付随する。自治会であれば、そのお金を自治会のより良い運営に使うのであるが、必ずしもそうならないこともある。自治会のより良い運営よりも自治会役員の懇親の方が重要であると主張する人もいる。役員は飲み会を通して、馴れ合いをして、自治会費を浪費することになる。自治会長は他人のお金で飲み食いさせて、自分が飲み食いさせていると勘違いすることができる。権力に付随して、物を他人にあたかも自分が配ったかのように配ることができることは、権力の持つ一つの強い力である。



3、権力と差別化

権力がある地位に着くとは他人と自分を差別化できることになる。議員を『先生。先生』とおだて上げ、自治会長となると『会長さん。会長さん』と名誉心をくすぐり、トップは『総理。総理』とコメントを取ろうと呼びかけたりするのは多くの人たちがやることである。みんなと自分は一緒と考える方がまともなのに、みんなと自分は違った存在であると感じることが人間の本能の一つなのかもしれない。



権力に固執したり、腐敗させたりしないためには?



物人金からと差別化ということから権力への固執や未練や腐敗について考えてみた。権力に惑わされたり、腐敗させたりしないための手法を考えてみたい。



1、多選をやめることであろう。

アメリカ大統領も2期8年が任期である。同じ人間が一定の権力を続けて持つのは良いことではない。自治会長なども10年表彰があるが、永年勤続表彰みたいな制度はあまりよくないと私は考えている。私の住む新潟市は20年表彰もある。60歳で定年退職して自治会長をやったとしても20年表彰を受けるためには80歳になってします。老害の部類に入るのではないだろうか。

日本では10年一昔との言い方がある。だから10年以上同じ人が同じ地位についていることはベターな選択ではないのではと思う。自治会長など、引退勧告をすべきであろう役所が20年表彰までして老害を助長しているのではないかとも思う。いくら立派な人でも老いがくる。老いてしまったときに自分の引き際を自覚できるように自分自身が一番考えていかなければならないことではないかと思う。同時にいつも研究心を忘れずに、新しい物を求めて、チャレンジし続けることも大切だ。でも、それは権力にしがみつくこととは別であると考えることが必要ではないか。





2、平時においては、極端な一極集中をやめるべきであろう。

ボランティアの団体などは3人5人会長制度が良いと考えている。会長が1人に副会長が2人なら、会長3人にして合議で決めるのが良いと考える。すると極端な権力集中がなくなり、また、3人寄れば文殊の智恵みたいなもので、助けあいが出て来て、会の運営はスムーズとなる。

同様に自治会の役員などは大勢にすれば良いと思う。PTAの役員もである。役員数を多くして、一人ひとりの負担が少なくなるようにすれば、誰でも役員等をやれるようになるのである。

戦時や緊急時においては、権力は集中させなければならないことがある。この場合は後日に検証されることを制度的にきちんと作っておくことである。闇から闇へと葬ることでは権力を握って悪いことをしてぼろ儲けしたものの勝ちとなるようではいけない。



3、どのように物やお金が出て来ているかをしっかりとみんなが自覚することである。

勤労なくして、物やお金が出てこないことを自覚するべきである。マルクスの資本論を共産主義と誤解している人がいるが、マルクスは資本がどのように価値を生み出しているかを基本的に分析したものである。分析の結果、価値は勤労の積みかさねであるとマルクスは言っている。この価値を一方的に独占することがおかしいとマルクスは言っているのである。

自治会で考えてみれば、自治会費の主体は税金である自治会事務委託料などや自治会員の会費である。このことを自治会長等は自覚するべきだ。そして自治会費を活用して、自治会員が協働してボランティア的に活動することで100万円の自治会費を200万円以上の価値へと高めることが必要である。この時に、高まった価値100万円分の中の一部が会長謝金や役員報酬となる。100万円の自治会費を100万円以上の価値を産む活動をしないで、報酬だけを求めるならば、それはおかしいと私は思う。

働き蜂は本当はあまり働いていないとの話は、NHKのアインシュタインの眼で知りました。働き蜂は3分の1しか働いていないのだそうです。後の3分の2は巣が壊されるなどの非常時に備えているとのことでした。蜂よりは賢そうな人間が動くことは価値をたくさん産むことだと私は思います。自らが動いて価値を産むようにしたいものです。ですが、世の中には自分が働かないで、他人を働かして、自分がその成果物を取得してしまう人も多いものです。働くとは本当は人のために動くと書く、国字です。



4、妥当である報酬が必要である。

報酬が極端に少ないと、権力や地位を握った人は別の場所で応分の報酬を求めてしまう。やはり妥当な報酬は必要である。同時に報酬が極端に多いと報酬を得るために能力のない人までがその地位を獲得しようとする。

報酬がどの程度であるべきかは難しい。児童館児童クラブの職員などは同等の仕事をしていて、年収600万円くらいから100万円以下までがあり、その格差は6倍以上あることもある。そして年収の高い職員ほど働かないと言う感じである。こんな風に見てみると、妥当な報酬のちょっと下程度が良いのかもと思う。



5、努力をすればある程度報われる制度を作ることだ。

児童館・児童クラブには資格認定制度がある。児童厚生員2級指導員・児童厚生員1級指導員・児童厚生1級特別指導員・児童健全育成指導士などの資格がある。資格を取りながら、自分の学習を伸ばしていくことができる。一回資格をとったら、それで永遠ではない方が良いと私は思う。しかしながら、同時に資格が形骸化することも確かである。実際の能力はないけれど、資格だけはどんどん暇と金をかけて盗る人もいるものだ。だから、世の中は難しい。



6、権力の乱用を慎む文化をみんなで作ることが必要だ。

「赤信号みんなで渡れば怖くない」との考えがある。権力を乱用して、利己主義的に振舞うのが当たり前の文化になれば、みんなそのようになってしまう。役人は賄賂をもらうのが当然であるとの文化もある。仕事を発注したら、バックマージンが入る。盆暮れには多額の物品が届くみたいな文化はおかしいのではないだろうか。

私が30年前に児童厚生員のブロック研修会に行ったときのことである。国立青年の家で寝ようとしたら、同室の公務員である児童厚生員が話していた。

「児童クラブの担当はいいよね。親から付け届けがある。付け届けをするなら、現金が良いね」との趣旨の話をしていた。こうした児童クラブや児童館はきっとダメになると私は思った。案の定、10年後に委託事業となった。

 賄賂を提案してきた人が

「誰も知らないから、ぜひ受け取ってください」と言う。これに対して

「天知る、地知る、我知る、汝知る(子知る)」と答えたとの故事がある。朝の連続ドラマでないけれどお日様も含めて、誰かがどこかで見ているのである。そうした文化を作りたいものだ。



 7、無駄を完全になくすことはできない。

 とかく権力者は無駄なことをして、利益をむさぼるような言い方をされることが多い。しかし、無駄のないことはありえないと考えることが必要であると思う。野球選手だって、3割打てれば大打者である。価値論的に考えてみると、人間の仕事はすべて無駄のない働きなどありえない。また、人間の働きは、お金的に表現してみると、上手くいけば、100万円の労働の投資で300万以上の価値を産むことがあるものだ。10のチャレンジで3割ほどでも大成功をすれば、それはそれで投資以上の価値を産んでいることが多いものだ。多少の無駄は考慮されるべきであろう。

 雨が降らないと思って、水撒きをしたら、雨が降ってきた場合で考えてみよう。確かに水撒きをしたことは無駄になった。しかしながら、雨が降って来ないで、花が枯れてしまえば、そのロスは多大なものになる。天気予報で雨が降らないと思って、水を撒くことは雨が降ってしまった場合の無駄よりも、雨が降らなかったときのことを考えて対処すべきであろう。原発事故を含めても考え方は一緒である。万が一の事故に備えて準備をしておくことは、一見無駄のように見えるが実は無駄ではないことが多いのである。

 無駄を完全になくすとの考えはこうした点から考えてみても難しいことだ。

 完全に無駄をなくすのではなくて、ある程度の無駄は想定内にしておくことが必要である。





いろいろなことを考えてみたが、なかなか世の中は難しい。でも基本に戻ってみると、ユングのいう『権力は腐敗する。暴力は麻痺する』との格言を思い出して、自分自身を常に見直すことが必要ではないかと思う。



 平成23年6月23日追加



 権力とは何かを考えてみた。権力は同時にある観点から、人を殺すことも命ずることができる。つまり合法的であれ暴力性を内在しているのである。実は人間の中にも暴力性が内在している。
 ゴキブリさんなどが出て来て、みんなが騒ぐと、ある意味では私は嬉しくなっている。私はゴキブリが怖くない。みんなに賞賛されて、生き物であるゴキブリを駆除できるのである。これも大きな意味では合法的な殺虫罪ではないだろうか。人間の中には暴力性が内在していることを自覚しなければならない。

 権力者が財産等を独り占めすると、経済が悪化する。実は1000万円あったとして、1000万円を1年間タンスに入れておいても、1000万円でしかない。
 マルクスの理論から言えば、1000万円が有効に使われて、4回転したとする。すると1000万円は2000万円になる。このことで経済は活性化する。価値とはマルクスの言葉を借りれば、勤労の蓄積である。1000万円という貨幣を通して、勤労が蓄積されていくことが大切である。
 1000万円で永原工務店に家のリフォームを頼んだとする。永原工務店は様々な職種の人たちに材料や仕事を依頼する。様々な職種の人たちがまた次の人に仕事を依頼する。こうした回転の中で、様々な職種の人たちの勤労が価値として蓄積されることになる。資金及び物品及び人が活動する中で、価値が作られていくのである。
 したがって、権力による不正蓄財やたんにケチであることは、経済的不利益を生むことがあっても、経済的利益を生ずることがないことはマルクスの考えからも明らかであろう。

 権力を暴力とお金からも考えてみた。
 

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