考えないで行動すること
2008年6月30日コメント (4)
最近、私は子ども達に考えないで行動するようにすすめている。一般的にしっかりと考えて行動することがよいように思われがちであるが「下手な考え休むに似たり」といった諺もあるように必ずしも考えることがベストやベターな選択であるとは限らないことが多いからである。
ADHD等注意欠陥や多動な子どもを見ていると圧倒的に男の子の確率が高い。男の子と女の子の違いを観察していると女の子は行動をする前に必ず他人の行動を見てから活動することが多い。これに対して男の子は先手必勝とばかりとにかく行動が先に来る。
学校から帰って来る時に犬の子のように一番を争うのは男の子だし、問題が出される前に「ハイハイ」と手を上げて「わかりません」と答えるのも男の子が多い。
女の子は周りの様子を観察してから行動するという社会的参照の能力に優れている。女の子が社会的参照能力に優れているのは哺乳動物として未熟児のようなあかちゃんとのコミュニケーションを図るために脳にある程度本能的にインプットされているものがあるのではないかと私は仮説を立てている。
哺乳動物でありながら乳を与えることのできない男は(オスは)せめて先んじて餌をとるために社会的参照の能力よりは活動的な能力を身につけたのではなかろうかとも私は思う。
多動や注意が集中できない(注意に過敏)ことは社会的参照の能力が足りない男の子に多くなるであろう。だとするならば、社会的参照の能力を培うことが必要となるであろう。そのためにはまずは下手な考えをしないでとにかく周りの人がどのように行動しているかを見てその真似をすることが大切になるであろう。下手なことを考えたり、なぜかを思う前に大多数の人の行動を見てそれと同じことをする能力を培うことである。これはある意味では無意識で真似をすることであり、意識的に考えることではないのである。そこで私は考えないで行動することを提案している。
考えないで行動するというのはエポケーするとの意味でもある。ある行動が正しいか間違っているかを議論するときりがなくなることがある。ちょうどイスラエルとパレスチナの戦争のようになってします。とりあえず停戦にもっていくというのも一つのエポケーの手法である。また韓国では日本の犬食いのような食べ方が文化的に正しいらしい。韓国で大きなおわんを手に持って食べるわけにはいかない。ちょっとおかしいと思っても郷に入ったら郷に従えというのも一つの手法である。とくに文化的な点においてはそれぞれの文化を認めるためには議論しあうことではないであろう。
エポケーして取り合えず多数派にしたがって行動することは必要である。その代わりに時間的に余裕がある時に様々な試行錯誤の取り組みをしておいてきちんと主張するときは主張することも大切であろう。ところがそうしたいろいろな経験や試行錯誤がないままに言葉だけが独り歩きしているのが今の時代ではなかろうかと私は思う。
考えないで行動することがまずできるようになることが必要である。
ADHD等注意欠陥や多動な子どもを見ていると圧倒的に男の子の確率が高い。男の子と女の子の違いを観察していると女の子は行動をする前に必ず他人の行動を見てから活動することが多い。これに対して男の子は先手必勝とばかりとにかく行動が先に来る。
学校から帰って来る時に犬の子のように一番を争うのは男の子だし、問題が出される前に「ハイハイ」と手を上げて「わかりません」と答えるのも男の子が多い。
女の子は周りの様子を観察してから行動するという社会的参照の能力に優れている。女の子が社会的参照能力に優れているのは哺乳動物として未熟児のようなあかちゃんとのコミュニケーションを図るために脳にある程度本能的にインプットされているものがあるのではないかと私は仮説を立てている。
哺乳動物でありながら乳を与えることのできない男は(オスは)せめて先んじて餌をとるために社会的参照の能力よりは活動的な能力を身につけたのではなかろうかとも私は思う。
多動や注意が集中できない(注意に過敏)ことは社会的参照の能力が足りない男の子に多くなるであろう。だとするならば、社会的参照の能力を培うことが必要となるであろう。そのためにはまずは下手な考えをしないでとにかく周りの人がどのように行動しているかを見てその真似をすることが大切になるであろう。下手なことを考えたり、なぜかを思う前に大多数の人の行動を見てそれと同じことをする能力を培うことである。これはある意味では無意識で真似をすることであり、意識的に考えることではないのである。そこで私は考えないで行動することを提案している。
考えないで行動するというのはエポケーするとの意味でもある。ある行動が正しいか間違っているかを議論するときりがなくなることがある。ちょうどイスラエルとパレスチナの戦争のようになってします。とりあえず停戦にもっていくというのも一つのエポケーの手法である。また韓国では日本の犬食いのような食べ方が文化的に正しいらしい。韓国で大きなおわんを手に持って食べるわけにはいかない。ちょっとおかしいと思っても郷に入ったら郷に従えというのも一つの手法である。とくに文化的な点においてはそれぞれの文化を認めるためには議論しあうことではないであろう。
エポケーして取り合えず多数派にしたがって行動することは必要である。その代わりに時間的に余裕がある時に様々な試行錯誤の取り組みをしておいてきちんと主張するときは主張することも大切であろう。ところがそうしたいろいろな経験や試行錯誤がないままに言葉だけが独り歩きしているのが今の時代ではなかろうかと私は思う。
考えないで行動することがまずできるようになることが必要である。
コメント
とりあえずエポケーして行動しておいて、その意味をもう一度時をおいて考え直すことが良いと私は思う。その時に夢を利用することが必要と思う。人間の動物としての歴史の積み重ねとして夢があるように思う。一つの行動をしたことの意味が夢の中で深い意味でも出てくるのである。
その夢の意味をしっかりと検討すれば自分自身の本源的な本能的な別の面からの心理過程が出てくるであろう。そうすればしっかりと思考過程を分析することができる。その上で再度の自分のエポケーして行動した意味を分析して今後の行動の仕方を考え直せば良いと私は思うのである。
先に提案の一つとして夢での再考を提案した。もう一つは行動する前に行動した結果をある程度予測してその予測がどの程度当たっているかで自分の思考パターンを深めることが必要ではないかと思う。つまり仮説を立ててそれを実行してその仮説が立証されたかを検証するというものである。いわゆるアブダクションの立証法を使用するというものだ。このようにすれば延々とした議論ではなくて実践的な思考形態を作ることができると思う。
演繹的な思考パターンや帰納的な立証だけでは解決できないことがたくさんあるのである。
考えないで行動するということは自分の脳を本当に集中させなければならないところに集中させることにつながるとも思う。つまり集中させるべきポイントに集中をさせ、それ以外のことにはエポケーしてオートマチックに行動することができるようになるとのことである。
お葬式に出かけて自分は浄土真宗だからといってキリスト教風の葬式は絶対におかしい。仏よりも神父が偉い構造になっていると思っている。賛美歌などは間違いと主張しても仕方がないであろう。むしろその形式に従いながら故人と自分の関係がどうであり、それをどのように受け止めて自分はどのように行動していったらよいかを考えるほうが大切であろう。そして参列者の中の自分と自分の仲間とそれ以外の人の存在の中で故人と自分の関係はどうであったかを考えるのが有意義ではなかろうか。
キリスト教風の葬式はおかしいと神父を非難したりしたらそれは一つの社会的不適応と判断されるであろう。
子どもの発言がときに辛辣なのはこうした形式を簡単に否定する革新性があるからとも言えるであろう。しかしながらこうした辛辣さが必ずしもいつも適切であるとは限らないことも事実である。だから辛辣さを押し込めて考えないで行動することの大切さも教えることも必要である。これが社会的参照の能力であると言えるであろう。そして本来の革新性とは必ずしもその場その場で安易に反応する(多動=注意過敏その意味では注意欠陥ではない)パターン性から脱却することも必要であろうと思う。
キリスト教風の葬式については私は違和感を感じたがエポケーして無事に終えることができた。その後に日本人とキリスト教風の文化の違いを認識した。日本人は死ねばみんな仏になる。仏は僧の上位に存在する。しかしキリスト教ではキリストが一番でその次にキリストへと導く神父がいて故人がいる。だからキリスト・神父・遺体の順におかれる。仏教ではご本尊・仏・僧となる。
生きた人間(神父)が故人よりも上位に居るのはとても私には違和感があった。こうした文化の違いの中で生死があるとすれば当然欧米風の主張を単純に受け入れることは私は危険であると思う。