女の子と男の子の扱い方の手法について
2011年8月12日 お仕事
子どもの職場を定年退職してから、半年くらいが経とうとしている。この間に平島公園や児童館や児童クラブ・保育園等を訪問して、ますます男の子と女の子の扱い方の手法は違うことを痛感している。
今までは児童厚生員兼主任・児童育成係長・センター長であったので、ある意味では子どもを人質にしているような面もあった。ですから私の考えに賛成してくれていても、それは半分、おせいじであることもあったかもしれない定年退職して、地位がなくなれば、相手も気遣いなく、自分の意見を言ってくれる。
男の子を育てているお母さん・おじいちゃん・おばあちゃんに平島公園で声かけをしている。女の子の後に生まれてきた男の子を育てていて、『男の子と女の子は全く違った扱いが必要』との考えに概ね9割の人が賛同してくれる。
男の子は棒を持ったら振り回し、石があったら投げ、土の場所では穴を掘り、ボールを蹴り、高いところに上りたがるのは本能である。女の子は何か行動する前に周りの様子をみてから判断する。社会的参照能力というのですが、その能力が高いから、男の子のような行動パターンをとらない。
棒を振り回している子どもがいたら、にこやかに近づいて『この手は悪い。でもあなたは良い子』と言ってやれば、たいてい解決するものだ。女の子に子の手法は通じない。特定して叱ればたいてい恨まれる。女の子が棒を振り回しているならば、他の子どももやっているのだから、集団として叱ることが必要となる。
女の子どもでも男の子的な女の子もいる。男の子どもでも女の子的な男の子もいる。他人の物を隠すなどでも男の子的なパターンなら簡単である。『〇〇ちゃん。誰々ちゃんが好きなのね』などと声をかけてやればすむ。でも女の子的な物を隠すパターンは要注意である。たいていは仲間とつるんで意地悪をしていることが多い。ですからその背景と集団を見極めて『どうも3年生の女の子で他人の物を隠して喜んでいる人がいる。天知る地知る我知る汝知ると言って、みんな見ているよ。』みたいな言い方が良いであろう。
褒めるのは厄介だ。女の子の場合は。『〇〇ちゃんはとてもよくやっている』などと褒めようものなら、みんなでシカトしようということにもなる。男の子の場合は『〇〇ちゃんは頑張るね』なんて言っても、他の子どものことなど基本的に関心がないから、聞いてもいないし、聞いたとしても無関心である。
男の子と女の子では扱い方の手法が違うのである。何でもチャレンジしたがるタイプと慎重派の場合では失敗したときに声かけが違うのである。その違いをきちんと把握しておかないとダメではないかと思う。
いろいろな人に声かけをして、日本人のほとんどが男の子と女の子の扱い方の違いを強く感じているのに、なんで「学問」のある人はそれが理解できないのであろうか。多くの場合に欧米風の理論で凝り固まっているからのように思う。
日本人はとても女性を大切にする民族である。なにせ天照大御神も女性であるのだから。世界の中で女の神様が先祖というのは少ないのではないか。そして、日本は一見男尊女卑みたいに見えるが、女性が実権を握っている国でもある。男が働いて、そのお金はおかみさんが持ち、男に小遣いをあげるパターンの国はそんなにはないだろう。このように女性が実質的に尊重されていて、それを基本にして国が成り立っているのだから、ジェンダーフリーみたいなのはそんなに必要ないのである。欧米のように一見女性上位のようで、実は実権のない国にジェンダーフリーみたいなのが現れ、それを金科玉条のように思っているのは愚かなことではないだとうか。
同じ人間だから同じ扱いという人もいる。でも他の動物でも雄と雌ではまったく違ったパターンのものもある。魚の中には大きな魚が雄になるのもあるし、逆に大きな魚が雌になるものもある。雄がきれいな場合もある。動物もいろいろ。人間もいろいろだ。適材適所、必要な手法を必要なときに使うことが大切ではないだろうか。
今までは児童厚生員兼主任・児童育成係長・センター長であったので、ある意味では子どもを人質にしているような面もあった。ですから私の考えに賛成してくれていても、それは半分、おせいじであることもあったかもしれない定年退職して、地位がなくなれば、相手も気遣いなく、自分の意見を言ってくれる。
男の子を育てているお母さん・おじいちゃん・おばあちゃんに平島公園で声かけをしている。女の子の後に生まれてきた男の子を育てていて、『男の子と女の子は全く違った扱いが必要』との考えに概ね9割の人が賛同してくれる。
男の子は棒を持ったら振り回し、石があったら投げ、土の場所では穴を掘り、ボールを蹴り、高いところに上りたがるのは本能である。女の子は何か行動する前に周りの様子をみてから判断する。社会的参照能力というのですが、その能力が高いから、男の子のような行動パターンをとらない。
棒を振り回している子どもがいたら、にこやかに近づいて『この手は悪い。でもあなたは良い子』と言ってやれば、たいてい解決するものだ。女の子に子の手法は通じない。特定して叱ればたいてい恨まれる。女の子が棒を振り回しているならば、他の子どももやっているのだから、集団として叱ることが必要となる。
女の子どもでも男の子的な女の子もいる。男の子どもでも女の子的な男の子もいる。他人の物を隠すなどでも男の子的なパターンなら簡単である。『〇〇ちゃん。誰々ちゃんが好きなのね』などと声をかけてやればすむ。でも女の子的な物を隠すパターンは要注意である。たいていは仲間とつるんで意地悪をしていることが多い。ですからその背景と集団を見極めて『どうも3年生の女の子で他人の物を隠して喜んでいる人がいる。天知る地知る我知る汝知ると言って、みんな見ているよ。』みたいな言い方が良いであろう。
褒めるのは厄介だ。女の子の場合は。『〇〇ちゃんはとてもよくやっている』などと褒めようものなら、みんなでシカトしようということにもなる。男の子の場合は『〇〇ちゃんは頑張るね』なんて言っても、他の子どものことなど基本的に関心がないから、聞いてもいないし、聞いたとしても無関心である。
男の子と女の子では扱い方の手法が違うのである。何でもチャレンジしたがるタイプと慎重派の場合では失敗したときに声かけが違うのである。その違いをきちんと把握しておかないとダメではないかと思う。
いろいろな人に声かけをして、日本人のほとんどが男の子と女の子の扱い方の違いを強く感じているのに、なんで「学問」のある人はそれが理解できないのであろうか。多くの場合に欧米風の理論で凝り固まっているからのように思う。
日本人はとても女性を大切にする民族である。なにせ天照大御神も女性であるのだから。世界の中で女の神様が先祖というのは少ないのではないか。そして、日本は一見男尊女卑みたいに見えるが、女性が実権を握っている国でもある。男が働いて、そのお金はおかみさんが持ち、男に小遣いをあげるパターンの国はそんなにはないだろう。このように女性が実質的に尊重されていて、それを基本にして国が成り立っているのだから、ジェンダーフリーみたいなのはそんなに必要ないのである。欧米のように一見女性上位のようで、実は実権のない国にジェンダーフリーみたいなのが現れ、それを金科玉条のように思っているのは愚かなことではないだとうか。
同じ人間だから同じ扱いという人もいる。でも他の動物でも雄と雌ではまったく違ったパターンのものもある。魚の中には大きな魚が雄になるのもあるし、逆に大きな魚が雌になるものもある。雄がきれいな場合もある。動物もいろいろ。人間もいろいろだ。適材適所、必要な手法を必要なときに使うことが大切ではないだろうか。
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