みんなに良いということはない マスコミの偽善ぶり
 阿部総裁が誕生し、人事をどうするかが話題になっている。マスコミはある人は総裁が妥協しないで自由にやれと言い、ある人は小泉さんとは違ってうまく党内調整を図るのが良いという。しかしながらどちらをとっても必ずどちらかに不満が残ることが事実である。マスコミや「評論家」はいつも偽善的な言動が多いように思う。例えば円高と言えば燕の洋食器などの輸出業者に取材に行って「困った」とのコメントをとり、円安と言えばガソリンスの値上げがいつごろかをとりあげて庶民が困るとの街灯インタビューをとる。いつも決まりきったパターンでの報道が続く。
 マスコミとはマスコミュニケーションで集団情報交換交流というようなことであろう。そしてマスコミの使命としてたんに情報伝達ではなくてオピニオンリーダーとして社会の変容とその方向性を伝えるべきではなかろうか。しかし「評論家」になり下がり、「国民」と共に不平不満を並べ立てて「国民」の機嫌取りをしているような偽善者ぶりを感じる。かといって完全に「国民」を信頼しているわけでもなくインタビューではもう取材するものの考えは決まっていて、自分の意図する以外のインタビューは受け付けないことが多い。

 世の中には二つと良いことはないものだし、両方に満足させるものはほとんどない。だから、例えば阿部総裁の問題ならば、今後小泉さん流の総裁による人事が日本のためになるか、派閥重視の人事が日本のためになるかそのプラスマイナスを判断し、きちんと主張すれば良いと思うのだ。

 以下は2006年1月ののtomoyan日記からのコピーである。
 年末に司馬遼太郎さんの「人間というもの」というPHPから出版されている文庫本を買った。河合継之助の言葉が載っていた。
(たとえば、こういうことだ。藩のためにもなり、天下のためにもよく、天朝もよろこび、幕府も笑い、領民も泣かさず、親にも孝に、女にももてる、というようなばかなゆきかたがあるはずもない)
 ということであった。そういうことを思いつく人間というのは空想家であり、ほらふきであり、結局はなにもしない。
(なにごとかをするということは、結局はなにかに害をあたえるということだ)
 と、継之助は考えている。何者かに害をあたえる勇気のない者に善事ができるはずがない、と継之助は考えている。

 あっちにもこっちにも良い顔をしてきちんと世の中の動きを伝えないマスコミは害を与えることになるのではないか。またそのような考えの「国民」が多くなっても日本は困るのではないかと思う。

 ちなみに私は阿部総裁には小泉さん流に官邸主導の人事をやっていくのが日本のためになると思う。というのは今の日本はある程度一本化した考えでやっていかなければならないとの時代認識があるからだ。反対意見は自民党内というよりはむしろ民主党(小沢一郎さん)に任せておけばよいのではないだろうか。

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