友達はありがたい

2006年8月9日
このところ連続で体罰問題について日記に書いていた。そしたら友達から電話が来た。「何かありましたか」とのこと。遊びの現場ではいろいろなことを起きうる。安全管理を最優先しているが、相手が元気な子どものこと自己が絶対に起きないということはない。友達は事故でも起きたのではと心配してくれたのだ。友達はありがたい。
 でも大丈夫です。事故が起きたのではなくて、事故を起こさないために、犯罪・非行・不当な暴力・体罰などについて整理をしておきたいと考えて連続で体罰の問題について書いているところです。
 安全管理の問題と体罰問題がどのように関係するかというと少子時代の中で自己中心の親子が増加し、子ども同士のケンカによる子どもの怪我やいじめなどが増加していて、それをどう防ぐかの手法が考えられなければいけない時期に来ていることです。そしていわゆる「体罰禁止」が不当な暴力を振るう子どもを助長していることもあるのです。「先こう。殴ってみろ。お前達は体罰が禁止されている。殴ったら首が飛ぶぞ」などとうそぶいて不当な暴力や言動を続けている子どもも多いからです。
 基本的な考えを再度繰り返すともう「体罰」良し悪しの論議はやめるべきだと思います。不当な暴力は許されないのです。「体罰」との名目であろうが、「遊び」の範疇という名目での子ども同士のいじめであろうが、非行であろうが不当な暴力的行為は許されてはいけない。不当な暴力的行為であるかいなかはしろうと理論で考えないで犯罪の論理と手口をしっかりと把握することによって理解ができると思うのである。そして不当な暴力を防ぐ具体的な手法を考える必要性がある。

 上記のことを前提にして、子どもの遊びの中におけるケンカについて考えてみたい。
 子どもにも大人にも人間の本能的な衝動として暴力性が内在されている。この暴力性をいかにコントロールするかは大切な問題である。(体罰があるから子ども達も暴力を振るうなどとの考えは幼稚であると私は思う。)人間の中にある暴力性がそのままに顕れてしまうと危険性が出てくる。そこで遊びはある意味では人間の中にある暴力性をコントロールすることによって暴力性を昇華するものではないかと私は思っている。つまり遊びはルールあるケンカと考えることができるのである。
 考えてみれば相撲は転ばしあいだし、野球は棒でボールを殴るようなものだ。ドッジボールはボールのぶつけ合い、だるまさんが転んだはあらさがし、水鉄砲遊びは水のかけ合い、じゃんけん遊びはやつけあいということもできる。手つなぎオニはオニ増やし、陣取りゲームは陣地とり合戦、将棋は駒の取り合いと王様殺し、七並べは意地悪しあいともいえる。
 折り紙や絵を描く、歌を歌うような表現遊びはケンカではないのではとの意見もあるであろう。でも考えてみると折り紙で自分の思い通りに折れなくてイライラして紙をめちゃくちゃにすることがある。表現遊びなどはまさに自己との格闘であるといえるからまさに自己とのケンカである。つまり遊びとはルールのあるケンカなのである。
 子どもたちがケンカをしたら、「ケンカをしないで仲良く遊びなさい」と大人はよく言うことがある。遊びをルールのあるケンカと考えるとケンカをしないことはできないのである。現場にいる職員なら「ケンカをしないで」ということが実は意味のないことであることを実感していることであろう。そこでは初めからケンカを前提に子どもたちと接する方法を考える必要が出てきたのである。
 
 少子時代の中で遊びを通して子どもの暴力性をコントロールし、昇華していくことは大切である。しかしながらその遊びを習得していく過程とは少子時代の中ですぐに切れてルールあるケンカから本物の大ゲンカになることが多々あるのである。相撲をやっていて負けたといって「蹴飛ばしてくる」子ども、野球のセーフ・アウトの小競り合いからバットで他人を殴る子ども、ドミノ遊びで気にくわないといってドミノを投げつける子どもなどがいる。ルールある遊びがいつの間にか本物モードのケンカになっていく。基本的には本物モードになったケンカは引き離して冷却期間をおくことが必要である。
 現場の職員として考えなければならないのは一瞬の隙にケンカの中で不当な暴力が振るわれてしまった場合である。この時にまず痛い目にあってしまった子どもをどうするかの問題がある。同時に不当な暴力を振るった子どもをどうするかの問題が生じる。基本的な問題として他人に怪我を負わせるような行為をしてはいけないことを躾けることが必要である。また、相手の痛みをきちんと自分の痛みとして理解することが必要であると私は思う。
 人間の手や足は丈夫にできている。それに対して目とか鼻とかお腹や背中・脳は弱い。だから人間は手か足で他人を叩く。やはり不当な暴力を振るった「この手は悪い。でもあなたは良い子」と子どもの視線のさらに下からunderstandして痛みを共有することも必要である場合もある。これは遊びの中のロールプレーとしてとらえることが必要であろう。こうした繰り返しを何度も何度もやることによって、子どもたちはルールあるケンカとしての遊びを習得していくのではないかと思う。

 私自身の今までの経験からすると不当な暴力を振るう子どもは楽しい遊びの遊び方をたくさん習得していないことが多いように思う。人間が自分の暴力性を昇華するためにはたくさんの有意義な遊びを習得していくことが一つの大切なことではないかと思う。遊びを習得するためには当然いざこざが生じる。そのいざこざの解決の手法を今後とも見つけていくことが必要である。
 下記は子どもと遊びとケンカについてのものである。
 http://www.na.rim.or.jp/~tomoyan/sennmongakkou/kennka.htm

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