世の中にはどうも論理というものが独立して存在していると思っている人がいるようだ。論理的に正しければ、自分も正しいもしくは正統派であると思えるというのである。
論理は以下のように記載されている
ろん‐り【論理】
(logic)
思考の形式・法則。また、思考の法則的なつながり。
実際に行われている推理の仕方。論証のすじみち。
比喩的に、事物間の法則的なつながり。「歴史的発展の―」
[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]
つまり思考の形式・法則。また思考の法則的なつながりであって、一つの形式なのである。その形式が正しいからといって、解釈しようとしている現状もしくは現実とマッチしているとは限らない。また一つの現状もしくは現実には幾通りもの論理が存在している。だから論理的に正しいからといって正しい選択とは限らないことになる。
児童館内における飲食について考えてみよう。
?飲食全面禁止論
児童館は子どもの健全育成のための施設である。子どもの健全育成は遊びを通して行うことになっている。児童館における飲食は食べれる人と食べれない人がいたりして遊び仲間を作るのにいかがであろうか。また衛生上の問題を考えると児童館における飲食は全面的に禁止すべきである。
?飲食部分許可論
基本的に児童館における飲食は禁止されるべきであるが、季節行事(餅つき会・豆まき会)などのハレの日には飲食が提供されても良い。
?飲食必要論
子どもにとって食べるということは生活の一部であり、遊びの一つでもある。食育が大切な時代におやつの提供は大切である。
児童館の遊び機能という考え方でもこれだけの論理が存在する。遊び機能論からの考えでなくて経費や費用の考えからも考えることができる。
?飲食全面禁止論
飲食には費用がかかる。自由来館を基本とした児童館では子どもはお金を持参することは良くないので禁止すべきである。
?部分許可論
児童館は地域と密接な関係を深めることが必要である。行事等においてお金をかけることを周知することこそ必要だから、行事等において飲食をするのは大切である。
?全面許可論
現在の日本で1日50円程度のおやつ代を払えない家庭はいない。きちんと話をして保護者の協力を得れば簡単である。また1日50円程度のおやつ代が払えない場合については別の福祉的な措置をこうずることが必要であ。また、地域や企業等の協力を得れば安くよりよいものをおやつに提供できるし、福祉的措置の必要な子どもにも対応できるはずだ。
以上のように論理はいろいろなのである。
ところがいろいろな論理があるにも関わらず、ある時はAの論理を使い、ある時はBの論理を使い、他の人たちをダブルバインド状況に追い込んで自分だけは正統派を主張する人が多すぎるのではないかと私は思うのである。
例えば個人情報法などはその典型である。個人の情報を守れということは間違いではないが、それを絶対的真理のように主張する。すると互いに名前も素性もわからないから疑心暗鬼になる。人間関係は希薄化する。すると他の家庭の児童虐待状況にも無関心になる。そして児童虐待が表面化すると地域や行政は何をやっていたかなどと主張する人たちが出てくる。その人たちが同時に個人情報法も正しいと主張していることが多いことに私はあきれた 思いをすることが多いのである。
一つの論理は一つの論理で絶対的に正しいものではない。マイナス面とプラス面があり、現実や現状への実際的対処はいくつかの論理の組み合わせで存在している。問題なのはその塩梅である。そのことをしっかりと考えて論理について再考することが必要なのではと思うこの頃である。
論理は以下のように記載されている
ろん‐り【論理】
(logic)
思考の形式・法則。また、思考の法則的なつながり。
実際に行われている推理の仕方。論証のすじみち。
比喩的に、事物間の法則的なつながり。「歴史的発展の―」
[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]
つまり思考の形式・法則。また思考の法則的なつながりであって、一つの形式なのである。その形式が正しいからといって、解釈しようとしている現状もしくは現実とマッチしているとは限らない。また一つの現状もしくは現実には幾通りもの論理が存在している。だから論理的に正しいからといって正しい選択とは限らないことになる。
児童館内における飲食について考えてみよう。
?飲食全面禁止論
児童館は子どもの健全育成のための施設である。子どもの健全育成は遊びを通して行うことになっている。児童館における飲食は食べれる人と食べれない人がいたりして遊び仲間を作るのにいかがであろうか。また衛生上の問題を考えると児童館における飲食は全面的に禁止すべきである。
?飲食部分許可論
基本的に児童館における飲食は禁止されるべきであるが、季節行事(餅つき会・豆まき会)などのハレの日には飲食が提供されても良い。
?飲食必要論
子どもにとって食べるということは生活の一部であり、遊びの一つでもある。食育が大切な時代におやつの提供は大切である。
児童館の遊び機能という考え方でもこれだけの論理が存在する。遊び機能論からの考えでなくて経費や費用の考えからも考えることができる。
?飲食全面禁止論
飲食には費用がかかる。自由来館を基本とした児童館では子どもはお金を持参することは良くないので禁止すべきである。
?部分許可論
児童館は地域と密接な関係を深めることが必要である。行事等においてお金をかけることを周知することこそ必要だから、行事等において飲食をするのは大切である。
?全面許可論
現在の日本で1日50円程度のおやつ代を払えない家庭はいない。きちんと話をして保護者の協力を得れば簡単である。また1日50円程度のおやつ代が払えない場合については別の福祉的な措置をこうずることが必要であ。また、地域や企業等の協力を得れば安くよりよいものをおやつに提供できるし、福祉的措置の必要な子どもにも対応できるはずだ。
以上のように論理はいろいろなのである。
ところがいろいろな論理があるにも関わらず、ある時はAの論理を使い、ある時はBの論理を使い、他の人たちをダブルバインド状況に追い込んで自分だけは正統派を主張する人が多すぎるのではないかと私は思うのである。
例えば個人情報法などはその典型である。個人の情報を守れということは間違いではないが、それを絶対的真理のように主張する。すると互いに名前も素性もわからないから疑心暗鬼になる。人間関係は希薄化する。すると他の家庭の児童虐待状況にも無関心になる。そして児童虐待が表面化すると地域や行政は何をやっていたかなどと主張する人たちが出てくる。その人たちが同時に個人情報法も正しいと主張していることが多いことに私はあきれた 思いをすることが多いのである。
一つの論理は一つの論理で絶対的に正しいものではない。マイナス面とプラス面があり、現実や現状への実際的対処はいくつかの論理の組み合わせで存在している。問題なのはその塩梅である。そのことをしっかりと考えて論理について再考することが必要なのではと思うこの頃である。
コメント
立場が違うと当然論理も違ってものになります。例えば私は自治会の副会長をしています。ですから当然自治会費を集める立場にあり、自治会費をみなさんが出してくれるように働きかけます。
自治会員の中には自治会費が適正に執行されていないのではとの疑問から払いたくない人と考える人もいます。またできるだけ支出を抑えたいとの考えから、自治会費を払う義務はないと主張する人もいます。つまり立場が違えば論理も違ったものになるということです。論理の違い・立場の違いのすり合わせという作業が実際には必要となります。このすり合わせの作業を怠って、論理のみを主張し続けるとエンドレスになります。
人によっては自治会の役員会では「自治会費を納めるべき」と主張し、他のところでは「自治会費は義務ではない」と主張している人もいます。ここまで矛盾していなくてもこうしたパターンの主張はよくあるものです。
「子どもの立場になれば、子ども権利は大切。でも最近の子どもの凶悪犯罪が増加する事態の中では子どもの権利のみの主張はダメだ」などの言い方も同じであると私は思います。私流にいうと「子どもも大人と同等の権利を有している。同時に大人と同様に人としてしてはいけないことはいけない」と主張しておいて、現実的な問題について考えるべきではないかと思うのです。
子どもが弱い子どもに不当な暴力を振るうならばその暴力にはきちんと実力で阻止することは必要である。しかしながら、その子どもの生い立ちなどを考慮してという考え方がおかしいと思う。つまり、被害者をどのようにするかとの論議をしている時に加害者の生い立ちの考慮というのは筋違いなのである。筋違いの論理を振り回すエセ「民主主義者」が多すぎるのではないかと思う。