子どもの事件と人間関係
2006年6月10日
子どもの事件が多発している。もちろんマスコミがとりあげることによる多く感じることもある。しかしながら、安易で自己中心・自分だけが目立ちたいといった感じの事件が多すぎるのではないかと思う。
私流の感じ方からいうと、やはり神を持たない日本人の多くに個人主義や個性の尊重だけを主張するのではダメなのではないかと感じる。犯人と言われる人の異常行動を生育歴の中でみんなに尊重されなかったとか、いやいや犯人の持つ特別のものだとか分析しているが、個人も地域も社会も仲間作りの観点から互いに我慢をしなければならないことをしっかりと学習することが必要なのではないかと思う。それはいわゆる躾とか隣保相愛・相互扶助とかの新しい現代版を作ることではないかと私は思う。
人間は仲間がいなければある意味では片時も生きていけない。一日の中でも電力会社の供給する電気をつけて目覚め、水道の水を使い、ガス会社のガスをつける。コンビニの弁当を食べというように実際的には仲間の存在なくして生きられない。
ついこの間の新潟大停電でも信号は動かない、調理はできない、官公庁では肝心の自家発電も動かない、暖房器具もダメ、このまま夜になったrらどうなるのかと思ったばかりである。
にも関わらず、物質的な豊かさにおぼれて、人間関係の心の豊かさを育てていないのではないか。それが日本における個人主義のように思う。
人は助け合って人間である。そのために人間関係のあり方・我慢の仕方・ふれあいの仕方などをしっかりと社会の中に位置づけることが必要である。
自治会でのことである。分別ゴミを分別しないで捨てる人がいた。拾ってきて調べてみたら某町の青少年健全育成対策協議会の委員をやっていることがわかった。車のエンジンオイルの廃油を近くの小川に廃棄して「安上がり」と偉ぶっている人が学校の校長をしていることもある。こうした人がいる反面、大校長先生なのにいつもマイ掃除機を持って校内を清掃している人もいる。また毎日草取りや清掃を欠かさない管理職もいる。どちらが個性的で個人として自立していると考えることができるであろうか。
個人主義ではなくて仲間作りを通して個性を磨くといった方向にならなければと思う。
私流の感じ方からいうと、やはり神を持たない日本人の多くに個人主義や個性の尊重だけを主張するのではダメなのではないかと感じる。犯人と言われる人の異常行動を生育歴の中でみんなに尊重されなかったとか、いやいや犯人の持つ特別のものだとか分析しているが、個人も地域も社会も仲間作りの観点から互いに我慢をしなければならないことをしっかりと学習することが必要なのではないかと思う。それはいわゆる躾とか隣保相愛・相互扶助とかの新しい現代版を作ることではないかと私は思う。
人間は仲間がいなければある意味では片時も生きていけない。一日の中でも電力会社の供給する電気をつけて目覚め、水道の水を使い、ガス会社のガスをつける。コンビニの弁当を食べというように実際的には仲間の存在なくして生きられない。
ついこの間の新潟大停電でも信号は動かない、調理はできない、官公庁では肝心の自家発電も動かない、暖房器具もダメ、このまま夜になったrらどうなるのかと思ったばかりである。
にも関わらず、物質的な豊かさにおぼれて、人間関係の心の豊かさを育てていないのではないか。それが日本における個人主義のように思う。
人は助け合って人間である。そのために人間関係のあり方・我慢の仕方・ふれあいの仕方などをしっかりと社会の中に位置づけることが必要である。
自治会でのことである。分別ゴミを分別しないで捨てる人がいた。拾ってきて調べてみたら某町の青少年健全育成対策協議会の委員をやっていることがわかった。車のエンジンオイルの廃油を近くの小川に廃棄して「安上がり」と偉ぶっている人が学校の校長をしていることもある。こうした人がいる反面、大校長先生なのにいつもマイ掃除機を持って校内を清掃している人もいる。また毎日草取りや清掃を欠かさない管理職もいる。どちらが個性的で個人として自立していると考えることができるであろうか。
個人主義ではなくて仲間作りを通して個性を磨くといった方向にならなければと思う。
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