人間というもの6 ー暴力についてー
2006年1月11日 人間と暴力の関係は難しくしかも避けて通れない問題である。現実に戦争や暴力があり、その中で非暴力・反戦だけのスローガンだけでは解決しないことがほとんどだからである。
攻撃性としての暴力は生物としての本能行動であるから、完全な抑制はもとより不可能であるが、それを対人関係においてどのような形で処理するかは、人間の場合、多くは学習によっているものと思われる。しかし、近年の日本においては、その学習の機会が諸外国に比べて極端に少ないのである。現在の中学生の親でさえ、戦後の混乱によるとされる少年非行の第1のピークを過ぎてから出生しており、攻撃性の処理に対する学習の機会はすでに少なかったはずである。つまり、現代の日本の少年たちは、攻撃性を社会的に処理する方法の学習を直接する機会もなく、その親から伝承もないまま、生物学的に最も攻撃性が高まる時期を迎えてしまっているのだと考えることもできる。
(富田拓氏の「攻撃性の源泉としての家族」より引用させたいただきました。)
暴力や攻撃性といったものは人間の中に本能的に存在する。存在する以上はきちんと向き合う必要性がある。非暴力等の観念的な運動だけではなくて、暴力や攻撃性を人間関係の中でどのように処理すべきかの現代的手法の開発が必要であると私は考えている。
その手法の一つは「ダメなものはダメ」を徹底することだと思う。なぜダメかと縷々と説明するよりも「ダメはダメ」「でもあなたは良い子」と繰り返し繰り返ししつこくない範囲でやれば子どもは学ぶものだと思う。石を投げたらダメ・棒を投げたらダメ・ガラスを投げたらダメ。でもコンニャクボールでキャッチボールを始めたら「うまいね」とほめてあげればよいのである。人の持つ攻撃性を社会の中で適応できるものはほめ、適応できないものはダメでもあなたは悪い子ではないとメッセージを送り続ければ小学校低学年までのこどもはけっこうついてくると私は経験的に思っている。
攻撃性としての暴力は生物としての本能行動であるから、完全な抑制はもとより不可能であるが、それを対人関係においてどのような形で処理するかは、人間の場合、多くは学習によっているものと思われる。しかし、近年の日本においては、その学習の機会が諸外国に比べて極端に少ないのである。現在の中学生の親でさえ、戦後の混乱によるとされる少年非行の第1のピークを過ぎてから出生しており、攻撃性の処理に対する学習の機会はすでに少なかったはずである。つまり、現代の日本の少年たちは、攻撃性を社会的に処理する方法の学習を直接する機会もなく、その親から伝承もないまま、生物学的に最も攻撃性が高まる時期を迎えてしまっているのだと考えることもできる。
(富田拓氏の「攻撃性の源泉としての家族」より引用させたいただきました。)
暴力や攻撃性といったものは人間の中に本能的に存在する。存在する以上はきちんと向き合う必要性がある。非暴力等の観念的な運動だけではなくて、暴力や攻撃性を人間関係の中でどのように処理すべきかの現代的手法の開発が必要であると私は考えている。
その手法の一つは「ダメなものはダメ」を徹底することだと思う。なぜダメかと縷々と説明するよりも「ダメはダメ」「でもあなたは良い子」と繰り返し繰り返ししつこくない範囲でやれば子どもは学ぶものだと思う。石を投げたらダメ・棒を投げたらダメ・ガラスを投げたらダメ。でもコンニャクボールでキャッチボールを始めたら「うまいね」とほめてあげればよいのである。人の持つ攻撃性を社会の中で適応できるものはほめ、適応できないものはダメでもあなたは悪い子ではないとメッセージを送り続ければ小学校低学年までのこどもはけっこうついてくると私は経験的に思っている。
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