人間というもの4

2006年1月8日
 子どもたちを自由にさせたいとの親の願いがある。しかし自由は人間関係そのものにあると私は思うし、一人で生きられない以上人間は人間関係のあり方に自由を求めるしかないとの主張は妥当であると私は思っている。
 問題行動児と言われる子どもたちは独り遊びができないことが多い。そして他人の遊びに無用の(本人は有用と思っているが)手出しをして嫌われる。嫌われるから暴力を振るう。暴力を振るうので注意をしつこくされる。ますますいじける。といったパターンをとっていることが多い。人間関係のあり方を獲得することが必要である。

 そこで司馬遼太郎さんの「人間というもの」からの引用

 「快適にその日その日を生きたい、という欲求が、人間ならたれにでもある。あらねばならんし、この欲求を相互に守り、相互に傷つけることをしない、というのが、日常というもののもとのもととなるものだ」
 だから、群居している人間の仲間で、行儀作法が発達した。行儀作法は相手に快適のためにあるのだ、と良順はいう。
「人間が、人間にとってトゲになったり、ちょっとした所作のために不愉快な存在になることはよくない」
ーー松本良順は幕末の佐幕派の医師で西洋医療を取り入れた人であるーー

 人間が独りで生きられない存在であるから、その中で人間関係のルール(行儀作法)を身に付けなければいけない。ルールや行儀作法は身に付けるものであって頭で理解するものではない。男というものは本能的に暴力的要素を持っていて、石があれば投げ、ボールがあれば蹴り、棒があれば振り回し、穴があれば掘りといった存在である。一つ一つの場面で不必要な暴力的行動を抑えることが必要である。同時に内在する暴力的衝動を充分に発散させることのできる遊びを提供することも必要である。

 

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