イメージ
2005年11月9日
物事をやろうとする時は私はまず自分なりの全体的なイメージを作る。例えば豆まき会をするとする。体育遊戯室に250人の大人と小学生と乳幼児がいると考える。落花生は1人200グラムとして50キログラムは寄贈してもらおう。景品は新聞販売店に頼もう。
豆まきだけではつまらないから太鼓の演奏を入れよう。参加型にするために子どもたちにも踊りを一緒に踊らそう。お父さん達には鬼になってもらおう。
頭の中で触れ太鼓で始まり、みんなで踊って、豆まきをして、後片付けのイメージができてくる。そのためにボランティアの呼びかけ、出演の交渉・寄贈のお願い・チラシ作成の準備パターンができてくる。
しかしこのイメージは私のイメージであり、他者のイメージと共有していない。他者との交流の中でイメージの再構成と豊かな内容への変容が始まる。景品の提供がもっと多くなるかもしれない。それではチラシに協賛新潟製菓と入れよう。人数が多いと豆まきの後に子どもがごったがえす。だからマジックショーを集会室でやって体育遊戯室の清掃の間の時間をつなごう。といった感じでまとまってくる。私自身は自分のイメージに固執していないから変容は大いに歓迎である。
ところがイメージが共有できないパターンの場合は提案に対して細かい批判が始まる。駐車場はどうするのか、靴はどうするのか、後片付けは誰がするのか。こうした問題点を突いてくる人は評論家であって、汗を流さない人に多い。基本的なイメージが決まれば実現可能な手法をみんなで考えればよいのである。駐車場は土曜日だから小学校にお願いしてみよう。靴は靴袋を業者から寄贈してもらおう。後片付けは参加者にあらかじめ手伝うように頼んでおこう。いろいろな手法があるのである。
基本的なイメージを作り、それをみんなで豊かなものに変容させていく。そのプロセスは参加者自らのイメージ作りであり、参加者の自主性である。自主的で自らのイメージが実現できるからボランティアも多く集まる。
まずそれぞれがイメージを作り、みんなのイメージの共有をどのようにするかを考えることが必要と私は思う。
豆まきだけではつまらないから太鼓の演奏を入れよう。参加型にするために子どもたちにも踊りを一緒に踊らそう。お父さん達には鬼になってもらおう。
頭の中で触れ太鼓で始まり、みんなで踊って、豆まきをして、後片付けのイメージができてくる。そのためにボランティアの呼びかけ、出演の交渉・寄贈のお願い・チラシ作成の準備パターンができてくる。
しかしこのイメージは私のイメージであり、他者のイメージと共有していない。他者との交流の中でイメージの再構成と豊かな内容への変容が始まる。景品の提供がもっと多くなるかもしれない。それではチラシに協賛新潟製菓と入れよう。人数が多いと豆まきの後に子どもがごったがえす。だからマジックショーを集会室でやって体育遊戯室の清掃の間の時間をつなごう。といった感じでまとまってくる。私自身は自分のイメージに固執していないから変容は大いに歓迎である。
ところがイメージが共有できないパターンの場合は提案に対して細かい批判が始まる。駐車場はどうするのか、靴はどうするのか、後片付けは誰がするのか。こうした問題点を突いてくる人は評論家であって、汗を流さない人に多い。基本的なイメージが決まれば実現可能な手法をみんなで考えればよいのである。駐車場は土曜日だから小学校にお願いしてみよう。靴は靴袋を業者から寄贈してもらおう。後片付けは参加者にあらかじめ手伝うように頼んでおこう。いろいろな手法があるのである。
基本的なイメージを作り、それをみんなで豊かなものに変容させていく。そのプロセスは参加者自らのイメージ作りであり、参加者の自主性である。自主的で自らのイメージが実現できるからボランティアも多く集まる。
まずそれぞれがイメージを作り、みんなのイメージの共有をどのようにするかを考えることが必要と私は思う。
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