枠にはめない枠から出さない
2005年10月12日
ホームページに枠にはめない枠から出さないとのコーナーを作りました。下記はそこからの引用です。
http://members.ecatv.home.ne.jp/tomoyant/syuhou/wakuni.htm
枠にははめないが枠から出さないとの指導の方向
A君は運動嫌いということになっていた。私が「これからローラースケートをやります。やりたい人は屋上にあがりなさい」と放送をしたときのことです。A君が私のところにやってきて「僕はローラースケートをやってよいですか」尋ねてきた。「「どうぞ」と同時に私は6年生の女子に「この子を連れいていって」とお願いをした。4分後に私が屋上のローラースケート場にあがってみると、彼はインローラーのローラースケート靴を履いて滑り出す直前であった。
枠にははめないけれど枠から出ることは許さない。これを徹底すれば子どもはその枠の範囲内で学びだすのである。その時にこそ子どもの自主性をほめてやれば良いのである。児童館・児童クラブの職員や障害児学級の教員がややもすると枠にはめてみたがたり、逆に実現不可能な枠外の活動を主張するのはたんなる自己弁護ではないかと私は思う。
Bさんは小学校の4年生の女子である。学習障害があるので障害児学級に通っている。みんなとボール遊びなどができない。一人で遊んでいることが多い。午後5時までは自由に遊んでいるが、清掃の時間になると必ず室内に入れる。「掃除の時間だから戻っておいて」。掃除終了後も外に出たがるがダメなものはダメで出さない。その代わりに掃除終了後にみんなとボール遊び・手つなぎオニ・だるまさんが転んだ・折紙などの遊びをする時には無理にはさせない。ただし一緒に他の子どもが遊ぶ様子を一人遊びをしながら見させている。ゲームの時間が終わりみんなにキャンディーを配る時にBさんにキャンディー配りをしてもらう。こうした積み重ねの中でBさんもいつか一緒にゲームを自主的にやる時が来るであろう。その時を待つことがとても大切と私は思う。
なぜ枠にはめたがるか?
障害児童の指導の多くが枠にはめた指導をしていることが多いように私は思う。障害を持っているからよくわからないだろう。だから懇切丁寧に説明し、手を出してサポートしてあげたいと思う。じつはこの姿勢はいかにも障害児童に親切そうに見えるから保護者や指導員や教員がやってしまうものでないかと私は思っている。子どもが自主的にやろうとする意欲を待ち、ダメなものはダメとサポートすることはけっこう大変なことです。見栄えもしません。安易で見栄えのするやり方は「A君。さあローラースケートを頑張ってやろう。楽しいよ」といった声かけをして手取り足取り指導することなのです。これが枠にはめたがる理由でないかと私は思います。
結果として上記のように依存的な子どもになります。また反抗的になって自分勝手に枠から飛び出したりします。するとそれを障害だからとADHD等と決め付けてしまいます。
子どもの能力は素晴らしいものだ
障害児童も含めてすべて子どもは自ら自主的に遊ぼうとする意欲に満ちているものです。枠にはめないで安全な枠の中で自由に活動させておけば、子どもは自主的に活動を始めるものです。これは生命の本能です。自主的意欲的な活動をしないということは生きていないことに等しいのです。ですから子ども及び人間の持つこの本能的能力を信じて遊び場環境を整えて待つことが大切なのです。ただ自主的意欲的な活動が必ずしも安全なものばかりではありません。危険な行為等は「ダメ」「何で?」「ダメなものはダメ」を繰り返すと子どもは素晴らしいものを自ら発見していくものなのです。このときに子どもをほめて同時に子どもからunderstandしていけば私たちは遊びの手法を発見できると思います。
「遊び学」風私論という遊邑舎のホームページで大人が子どもの遊びに関わる難しさについて記載されていた。遊びを指導しようと思わないでサポートするのが大切と私は思う。
http://members.ecatv.home.ne.jp/tomoyant/syuhou/wakuni.htm
枠にははめないが枠から出さないとの指導の方向
A君は運動嫌いということになっていた。私が「これからローラースケートをやります。やりたい人は屋上にあがりなさい」と放送をしたときのことです。A君が私のところにやってきて「僕はローラースケートをやってよいですか」尋ねてきた。「「どうぞ」と同時に私は6年生の女子に「この子を連れいていって」とお願いをした。4分後に私が屋上のローラースケート場にあがってみると、彼はインローラーのローラースケート靴を履いて滑り出す直前であった。
枠にははめないけれど枠から出ることは許さない。これを徹底すれば子どもはその枠の範囲内で学びだすのである。その時にこそ子どもの自主性をほめてやれば良いのである。児童館・児童クラブの職員や障害児学級の教員がややもすると枠にはめてみたがたり、逆に実現不可能な枠外の活動を主張するのはたんなる自己弁護ではないかと私は思う。
Bさんは小学校の4年生の女子である。学習障害があるので障害児学級に通っている。みんなとボール遊びなどができない。一人で遊んでいることが多い。午後5時までは自由に遊んでいるが、清掃の時間になると必ず室内に入れる。「掃除の時間だから戻っておいて」。掃除終了後も外に出たがるがダメなものはダメで出さない。その代わりに掃除終了後にみんなとボール遊び・手つなぎオニ・だるまさんが転んだ・折紙などの遊びをする時には無理にはさせない。ただし一緒に他の子どもが遊ぶ様子を一人遊びをしながら見させている。ゲームの時間が終わりみんなにキャンディーを配る時にBさんにキャンディー配りをしてもらう。こうした積み重ねの中でBさんもいつか一緒にゲームを自主的にやる時が来るであろう。その時を待つことがとても大切と私は思う。
なぜ枠にはめたがるか?
障害児童の指導の多くが枠にはめた指導をしていることが多いように私は思う。障害を持っているからよくわからないだろう。だから懇切丁寧に説明し、手を出してサポートしてあげたいと思う。じつはこの姿勢はいかにも障害児童に親切そうに見えるから保護者や指導員や教員がやってしまうものでないかと私は思っている。子どもが自主的にやろうとする意欲を待ち、ダメなものはダメとサポートすることはけっこう大変なことです。見栄えもしません。安易で見栄えのするやり方は「A君。さあローラースケートを頑張ってやろう。楽しいよ」といった声かけをして手取り足取り指導することなのです。これが枠にはめたがる理由でないかと私は思います。
結果として上記のように依存的な子どもになります。また反抗的になって自分勝手に枠から飛び出したりします。するとそれを障害だからとADHD等と決め付けてしまいます。
子どもの能力は素晴らしいものだ
障害児童も含めてすべて子どもは自ら自主的に遊ぼうとする意欲に満ちているものです。枠にはめないで安全な枠の中で自由に活動させておけば、子どもは自主的に活動を始めるものです。これは生命の本能です。自主的意欲的な活動をしないということは生きていないことに等しいのです。ですから子ども及び人間の持つこの本能的能力を信じて遊び場環境を整えて待つことが大切なのです。ただ自主的意欲的な活動が必ずしも安全なものばかりではありません。危険な行為等は「ダメ」「何で?」「ダメなものはダメ」を繰り返すと子どもは素晴らしいものを自ら発見していくものなのです。このときに子どもをほめて同時に子どもからunderstandしていけば私たちは遊びの手法を発見できると思います。
「遊び学」風私論という遊邑舎のホームページで大人が子どもの遊びに関わる難しさについて記載されていた。遊びを指導しようと思わないでサポートするのが大切と私は思う。
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